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Channel: 竹取翁と万葉集のお勉強
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今日の古今 みそひと歌 金

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今日の古今 みそひと歌 金

春のとく過ぐるをよめる 躬恒
歌番一二七 
原歌 あつさゆみはるたちしよりとしつきのいるかことくもおもほゆるかな
標準 あずさゆみ春たちしより年月のいるがごとくもおほゆるかな
解釈 梓弓春立ちしより年月の射るがごとくも思ほゆるかな
注意 万葉集時代、梓弓は巫女が神事に使うような弱弓で、真弓は武者が持つ強弓です。ただ、時代が下るにつれて、真弓は檀弓(まゆみ)と同質化したようです。歌は弓を張ると季節の春との言葉遊びだけのものとして、鑑賞するようです。すこし、探して「光陰矢の如し」の故事があるともします。そのように苦しい歌です。


万葉雑記 色眼鏡 百七六 「生き返る」を鑑賞する

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万葉雑記 色眼鏡 百七六 「生き返る」を鑑賞する

 今回は、「生き返る」をテーマに平安時代の古語から時代を遡り、万葉集の歌を鑑賞したいと思います。ただ、いつもの調子で、言いがかりに近い酔論ですし、また、お約束のバレ話でもあります。

 さて、平安古語に「あくがる」と云う言葉があります。この「あくがる」と云う古語の由来について、言葉は「あく+離る」と分解され、「あく」は「事・所」の意味合いを持っていたとの語源提案があります。他方、「あく」は「空く」であり、「あくがる」は「空く+離る」であるから、宙に心が離れて行く様を表す言葉であると解説するものもあります。この解釈を一歩進めますと「空く+反る」というものも現れ、「一時的に心が体から離れ、再び戻ってくる」となります。
 その古語としての標準的な意味合いは次のようなものです。
-心が体から離れてさまよう。うわの空になる。
-どこともなく出歩く。さまよう。
-心が離れる。疎遠になる。
 なお、現代日本語の「憧れる」とは意味合いが全くに違います。現代日本語の「憧れる」に相当する古語単語はありません。
 歴史にこの言葉を探しますと、万葉集の歌には見つけられませんでしたが、平安時代になると次のような作品に「あくがる」と云う言葉が現れて来ます。古いものでは古今和歌集巻二や貫之集に載る和歌に現れて来ますから、平安時代初期以前には「あくがる」と云う言葉は人々の間で使われるようになったと思われます。つまり、言葉が存在するのですから「心が体から離れさまよう。うわの空になる」と云う現象は、人々の間では認識されていたと推定されます。

<「あくがる」の言葉を含むもの>
いつまでか野辺に心のあくがれむ花しちらずは千世もへぬべし (古今和歌集)
思ひ余りわびぬる時は宿離れてあくがぬべきここちこそすれ (紀貫之集、古今六帖)
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る (和泉式部日記)
沢の蛍も我が身よりあくがれいづるたまかとぞ見る (後拾遺集)
物思ふ人のたましひは,げにあくがるる物になむありける (源氏物語)
世の中をいとはかなきものに思して,ともすればあくがれ給ふを (栄花物語)

 そうした時、「あくがる」と云う言葉は使われていませんが、男女の禁断の恋の密会で、女性が私の心は宙に舞ったと詠う歌が古今和歌集にあります。それが次の歌です。

業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいと密かに逢ひて、又の朝に人やるすべなくて思ひをりける間に、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず
君や来し我や行きけん思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか

 詞書に示すように女性は伊勢神宮の斎宮の立場の人ですから、建前として斎宮に籠り、精進潔斎して神を斎祀るのが務めです。その身分と立場からして女性から男性の許に闇にまぎれて出かけて行く状況はあり得ませんし、さらに平安時代の恋愛ルールでも男が女の許を尋ねます。このような禁断の恋の歌ですから、女性は「よみ人しらず」として扱われています。ただ、ほぼ、清和天皇の皇女であり伊勢斎宮を務めた恬子内親王であろうと推定されています。身分と立場からしますと、かように際どく危険な内容を詠った歌なのです。
 このような条件の下、この歌は夜間の密会の翌朝のものですから、まず、性愛の後感がテーマです。そうした時、歌の「君や来し我や行きけん」とは、どういう状況を詠っているかと云うことが重要になります。在原業平は恬子内親王と思われる女性と確かにその女性の寝所で密会しています。有名な奈良飛鳥神社の御田植神事では豊作を予祝するものとして天下りした神の代理の神主が采女(植女)と神婚神事と云う疑似性交を行います。現在は観光客なども見学する解放された空間での祭事ですから行為はユーモラスな疑似性交でしょうが、古式では里人だけの閉鎖された社会での祀りですから神主と采女が本当に神婚儀礼を行ったと思われます。およそ、そのような神事を司るのが務めである伊勢斎宮が歌を詠ったときに、そのような神婚儀礼と云うものが歌の背景にあったのではないでしょうか。また、返歌で「闇にまどひにき」と詠いますから、男は初めての寝所や斎宮の屋敷全体にも不慣れな状況はあったと思われますから、伊勢斎宮の寝所で夜をともに過ごしたことは確実です。業平ですから女性との密会でのその行為に戸惑いがあったというものではありません。つまり、歌は夜通しの性愛の中で「私はあくがれ」という状況になりましたと詠うものなのでしょう。
 参考として、鎌倉時代の私小説「とはすかたり」で登場する前斎宮愷子内親王は伊勢から都に戻った直後に後深草院から参内のお召が掛かります。そして、周囲は前斎宮と云う立場を心配して念のため主人公の二条に夜の替え添えを命じますが、心配をよそに二条がしらけるほどに前斎宮は夜が上手であったとします。そして、その「とはすかたり」では、共寝の翌朝、後深草院は前斎宮を「桜はにほひは美しけれども枝もろく折りやすき花」と擬え、前斎宮はその夜の出来事を「夢の面影」と称します。また、この時代までに、女性たちは夜の営みを「夢」と称していますから、「夢の面影」という言葉はそのような比喩を用いたものとして解釈する必要があります。本来は、精進潔斎を務めとする伊勢斎宮ではありますが、かように神婚儀礼の実務に精通していたと思われます。足して、「とはすかたり」で示される後深草院の性癖は蕾や初花を好みに合わせて育てるのが好きだったようで、既に咲き誇る花は好みではなかったようです。後深草院の「折りやすき花」はそのような意味合いです。この愷子内親王から逆に眺めますと恬子内親王もまた咲き誇る花であったと推定されます。
 ここで、古今和歌集での「夢」と云う言葉を持つ歌を紹介します。この「夢」を夜の営みの比喩であるとすると、まめかしい歌となるのではないでしょうか。

山寺に詣でたりけるによめる 紀貫之
歌番号0117 
解釈 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける
私訳 春の山辺の宿に泊まって一夜を過ごしたとき、野辺に花びらが風に舞うように夜床でも貴女が舞い散りました。

題しらず 小野小町
歌番号0553 
解釈 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき
私訳 うたた寝をした時に恋しい人を夢の中に見てからは、貴方に抱かれ、女になりたいという気持ちが募って来ました。

 このような解釈を総合して歌を解釈しますと、次のようなものになります。なお、授業での伊勢物語や古今和歌集の解釈・解説ではありませんから、内容は大人のバレ話となっています。

業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいと密かに逢ひて、又の朝に人やるすべなくて思ひをりける間に、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず
歌番号0645 
解釈 君や来し我や行きけん思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか
私訳 昨夜、貴方が私の体で果てたのでしょうか、それとも私が貴方によって気がいったのでしょうか。そのことは夢だったのでしょうか、それとも本当のことだったのでしょうか。

返し 業平朝臣
歌番号0646 
解釈 かき暮らす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ
私訳 貴女を欠いて日を暮らす、その言葉の響きではありませんが、火を欠き暗くするような真っ暗な心のような、その闇の中で惑うばかりで確かなことは言えません。夢だったのか、本当のことだったのか、それは世の人の噂話に任せましょう。


 平安時代初期の段階でこのような男女の仲で際どい歌が詠われています。では、万葉集ではどうかと云うと次のような歌を見出すことが出来ます。
 当然、袴着や裳着の儀礼を経た成熟した男女ですから、「恋」や「相手を想う(=念)」と云う行為には暗黙的な約束として共寝を伴う性愛と云うものがあります。集歌2390の歌が詠うように、共寝を伴う性愛により体が何度も死んで生き返るとします。当時の死とは体から霊魂が抜けだした状態やモノを云いますから、共寝を伴う性愛により女性の体から霊魂が抜けだした状態を暗示します。ちょうどそれは、柿本人麻呂時代の表現では「死反」であり、紀貫之時代では「あくがる」と云う表現となるのでしょうか。そうしますと、先に「あくがる」は「空く+離る」と云う説を紹介しましたが、和歌では心と体との関係において「空く+反る」であるのかもしれません。

集歌2390 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋するに死するものしあらませば我が身千遍(ちたび)し死し反(かへ)らまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。

集歌603 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死しするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死(し)し反(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。

 万葉集は性愛を詠うと評論するように、男性器を太刀と比喩して性愛を詠うものがあります。ここでは太刀と云う言葉に対して縁語である死と云う言葉が使われていますが、先の「死反」と云う意味合いからしますと、女性が男性の性愛で気を宙に飛ばす状態になるでしょうと告げているのかもしれません。露骨に性愛を詠う集歌2949の歌では「得田價異 心欝悒 事計 吉為」と久しぶりの性愛で女性が男性に色々な性戯を求めていますから、肌のなじんだ関係が推測されます。それと同様に集歌2498の歌もまた肌のなじんだ関係の男女なのでしょう。さらに柿本人麻呂の歌として、歌に「手舞足踏」の詞の暗示があるのですと、剣太刀による性愛で気が宙に舞う非常なる歓喜を暗示することになります。なお、集歌2636の歌になりますと、表の刃物としての太刀と裏の隠語比喩としての太刀との言葉遊びが含まれ、性愛の激情感は弱まります。

集歌2498 剱刀 諸刃利 足踏 死々 公依
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)諸刃(もろは)し利(と)きし足踏みし死なば死なむよ公(きみ)し依(よ)りては
私訳 二人で寝る褥の側に置いた貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に、私が手舞足踏の詞ではありませんが、愛撫に喜びを感じて死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

集歌2636 剱刀 諸刃之於荷 去觸而所 殺鴨将死 戀管不有者
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)諸刃(もろは)し上(うへ)に触(ふ)れ去(い)にそ殺(し)ぬかも死なむ恋ひつつあらずは
私訳 立派な貴方の剣や太刀のような鋭い刃のような「もの」に触れてしまったら、それで殺されるなら死にましょう。これが恋の行いでないのなら。

 万葉集にも性愛を詠う歌は数ありますが、この柿本人麻呂歌集に載る集歌2390と集歌2498との歌二首を超えるものはありません。そのため、早く奈良時代前期にはこの歌を引用する歌が詠われ、また、源氏物語ではこのような歌は「生」ですからままに引用はされていませんが、それでも別の歌を引用することで人麻呂の詠う濃密な恋の世界を展開しています。

 さて、「あくがる」と云う平安時代初期には存在した言葉から出発しましたが、身体からの精神の幽体離脱を「死反」や「あくがる」と云う言葉で表現しているとことに対して精神と身体とが一体化し心身充実している状態を万葉集では「霊剋、霊寸春」(たまきはる)と表現したようです。

集歌4 玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
訓読 霊(たま)きはる宇智(うち)の大野に馬(むま)並(な)めて朝踏ますらむその草(くさ)深野(ふかの)
私訳 霊きはる(気が満ち充実する)、その言葉の響きではありませんが、春の宇智にある大野に馬を並べて、朝に大地を踏ますのでしょう。その草深い野で。

集歌1912 霊寸春 吾山之於尓 立霞 雖立雖座 君之随意
訓読 たまきはる吾(あ)が山し上(へ)に立つ霞立つとも坐(ゐ)とも君しまにまに
私訳 春の様に気が満ちている私、その闊達な私の住む里の山の上に立ち上る霞、その言葉の響きではありませんが、立っていても座っていても貴女を慕い思い込める、そのような私を貴女の思し召しの通りにしてください。

 当然、精神と身体とが一体化し心身充実している状態ですから、男女の夜床には似合わない言葉です。あくまで、お日様の下での言葉です。ただ、性愛の世界では女性も好みがあったようで、次の集歌3486の歌の女性のように思いっきり強く抱きしめてもらいたい人もいたようです。このような好みでは「霊寸春吾」のような心身充実し、頑強な男が好ましいのかもしれません。

集歌3486 可奈思伊毛乎 由豆加奈倍麻伎 母許呂乎乃 許登等思伊波婆 伊夜可多麻斯尓
訓読 愛(かな)し妹を弓束(ゆづか)並(な)へ巻き如己男(もころを)の事(こと)とし云はばいや扁(かた)益(ま)しに
私訳 かわいいお前を、弓束に藤蔓をしっかり巻くように抱きしめるが、それが隣の男と同じようだと云うなら、もっと強く抱いてやる。

 今回、「生き返る」と云うテーマで遊びましたが、歌を調べる中で今まで弊ブログで垂れ流して来た解釈が、相当、とぼけた解釈であったことが身に染みました。いや、実に恥ずかしいことです。学校を出ていないためからか、平安時代、「夢」と云う言葉に性交渉と云う意味があったこと、「足踏」と云う言葉を「手舞足踏」の略語とするなら狂喜乱舞と云う可能性を知りませんでした。歌で「足踏」と云う言葉を夜事の状況説明に使えば女性が失神するほどの快感と解釈するのは奈良貴族の教養でしょうね。
 いや、勉強不足でした。恥ずかしい次第です。
 ただ、これに準じて古今和歌集の歌を見直すと、相当に影響が出て来るのではないでしょうか。改めて、歌を紹介します。

山寺に詣でたりけるによめる 紀貫之
歌番号0117 
解釈 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける
標準 宿を取って、春の山辺に寝た夜は、夢の中にも花が散っていたことよ。
私訳 春の山辺の宿に泊まって一夜を過ごしたとき、野辺に花びらが風に舞うように夜床でも貴女が舞い散りました。


題しらず 小野小町
歌番号0553 
解釈 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき
標準 うたた寝をしていて恋しい人を見て以来、夢というものを頼みにするようになってしまった。
私訳 うたた寝をした時に恋しい貴方を夢の中に見てからは、貴方に抱かれ、女になりたいという気持ちが募って来ました。

万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1629

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1629

大伴宿祢家持贈坂上大嬢謌一首并短謌
標訓 大伴宿祢家持の坂上大嬢(おほをとめ)に贈りたる謌一首并せて短謌
集歌1629 叩々 物乎念者 将言為便 将為々便毛奈之 妹与吾 手携而 旦者 庭尓出立 夕者 床打拂 白細乃 袖指代而 佐寐之夜也 常尓有家類 足日木能 山鳥許曽婆 峯向尓 嬬問為云 打蝉乃 人有我哉 如何為跡可 一日一夜毛 離居而 嘆戀良武 許己念者 胸許曽痛 其故尓 情奈具夜登 高圓乃 山尓毛野尓母 打行而 遊徃杼 花耳 丹穂日手有者 毎見 益而所思 奈何為而 忘物曽 戀云物呼

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 ねもころに 物を思(おも)へば 言はむすべ 為(せ)むすべもなし 妹(いも)と我れと 手(て)たづさはりて 朝(あした)は 庭に出で立ち 夕(ゆうへ)は 床うち掃(はら)ひ 白栲(しろたへ)の 袖さし交(か)へて さ寝(ね)し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそば 峯(を)向(むか)ひに 妻(つま)どひすといへ うつせみの 人なる我や 何すとか 一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(ゐ)て 嘆き恋ふらむ ここ思(おも)へば 胸こそ痛き そこゆゑに 心(こころ)なぐやと 高円(たかまど)の 山にも野にも 打ち行きて 遊(あそ)び歩(ある)けど 花のみ にほひてあれば 見るごとに まして偲(しの)はゆ いかにして 忘れむものぞ 恋といふものを
意訳 つくづくと物を思うと、何と言ってよいか、どうしてよいか、処置がない。あなたと私と手と手を交わして、朝方には庭に下り立ち、夕方には寝床を払い清めては、袖を交わし合って共寝した夜が、いったいいつもあったであろうか。あの山鳥なら、谷を隔てて向かいの峰に妻どいをするというのに、この世の人である私は、何だってまあ一日一夜を離れているだけで、こんなにも嘆き慕うのであろうか。このことを思うと胸が痛んでならない。それで心のなごむこともあるかと、高円の山にも野にも、馬に鞭打って出かけて行き遊び歩いてみるけれど、花ばかりがいたずらに咲いているので、それを見るたびにいっそう思いがつのる。いったいどのようにしたら忘れることができるであろうか。この苦しい恋というものを。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 ねもころし 物を念(おも)へば 言(こと)為(し)便(すべ) 為(せ)む便(すべ)も無し 妹(いも)と吾(あれ) 手携(てたずさ)はりて 朝(あした)には 庭に出で立ち 夕(ゆうへ)には 床うち払ひ 白細(しろたへ)の 袖さし代(か)へて さ寝(ね)し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそば 峯(を)向(むか)ひに 妻問(つまとひ)云ひし 現世(うつせみ)の 人なる我や 何すとか 一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(ゐ)て 嘆き恋ふらむ ここ念(も)へば 胸こそ痛き そこ故に 情(こころ)和(な)ぐやと 高円(たかまど)の 山にも野にも うち行きて 遊び往(い)けど 花のみし 色付(にほひ)てあれば 見るごとし ましにそ思(おも)ふ 如何(いか)にせに 忘れむものぞ 恋いふものを
私訳 心を込めて物思いをすると、神に誓ったり、策を練ったりすることも出来ない。貴女と私とが手を携えて、朝には庭に出て立ち並び、夕べには寝床を清めて白妙の袖を交えて共寝した夜が、日常のようにあったでしょうか。葦や桧の茂る山に棲む山鳥こそは、峯の向こうに妻問いをすると云うのに、この世に生きる人である私は、どうしたことか、一日一夜も貴女と離れ離れになっていて、嘆き貴女を恋慕う。それを思うと胸は痛い。そのために、気持ちは和らぐだろうと、高円の山にも野にも出かけて行って風流を楽しむのだが、花ばかりが美しく咲いているので、それを眺めるたびに、反って貴女を慕ってしまう。どのようにして、忘れるのものなのでしょうか。人に恋すると云うものを。

注意 原歌「叩々」の訓じは難訓訓です。伝統では「ねもころ」と訓じます。訓じでは「萬葉集 釋注」とでは微妙に違いがあります。

今日の古今 みそひと歌 月

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今日の古今 みそひと歌 月

弥生に鴬の声の久しう聞こえざりけるをよめる 貫之
歌番一二八 
原歌 なきとむるはなしなけれはうくひすもはてはものうくなりぬへらなり
標準 なきとむる花しなければうぐひすもはては物うくなりぬべらなり
解釈 鳴き止むる花しなければ鴬も果てはもの憂くなりぬべらなり
注意 弥生と云う季節ですから、花は桜と思われます。ただ、鶯は新暦八月頃までは里で鳴いていますから、歌の世界と実際の里山の世界は違います。現在は梅と鶯をセットで歌を詠うのがお約束ですが、平安時代は桜と鶯がセットだったのでしょうか。なお、宴会で美人を「花」、歌を所望された風流人を「鶯」と比喩して、庭先に聞こえない鶯の声に当て付けて即興で歌を詠えない人を揶揄したかもしれません。

今日の古今 みそひと歌 火

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今日の古今 みそひと歌 火

弥生のつごもり方に山を越えけるに、山河より花の流れけるをよめる 深養父
歌番一二九 
原歌 はなちれるみつのまにまにとめくれはやまにははるもなくなりにけり
標準 花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり
解釈 花散れる水のまにまに尋めくれば山には春もなくなりにけり
注意 「とめくれは」は「留めくれば」と「尋めくれば」との解釈が成り立ちます。川の岩肌のあちらこちらに散った花びらが漂う風情か、それとも川を遡って山桜の花を求めたのかは感性です。詞書からは「留めくれば」の方が近い感性です。なお、一方的に「尋めくれば」と解釈するのは伝統です。ご存知のように芸術ではなく文学として歌道化や入試科目化することは、鑑賞の答えを一つに集約する必要があります。本来の古今和歌集が目指した多様性に反しますが、芸術作品としてそれぞれの感性で鑑賞して歌が複線化しますと、古今和歌集の伝授に困ると云う事態になりますし、試験での採点が出来なくなります。

今日の古今 みそひと歌 水

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今日の古今 みそひと歌 水

春を惜しみてよめる 元方
歌番一三〇 
原歌 をしめともととまらなくにはるかすみかへるみちにしたちぬとおもへは
標準 をしめどもとどまらなくに春霞かへる道にしたちぬとおもへば
解釈 惜しめども留まらなくに春霞帰る道にし立ちぬと思へば
注意 「たちぬ」の解釈をどうしましょうか。「春霞が立つ」としましょうか、「帰る道に私が立つ(発つ)」としましょうか、それとも、時間の経過から「春霞の風情が経つ」としましょうか、はたまた、留まりたいと云う「気持ちを断つ」としましょうか。これらの解釈によっては「ととまらなくに」の対象物が変わってきます。どこまで複線的に鑑賞できるかは、それぞれの感性です。解説では解釈を示すより、解釈の可能性を示すのが良いと思います。

今日の古今 みそひと歌 木

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今日の古今 みそひと歌 木

寛平御時后宮の歌合の歌 興風
歌番一三一 
原歌 こゑたえすなけやうくひすひととせにふたたひとたにくへきはるかは
標準 こゑたえずなけやうぐひすひととせにふたたびとだにくべき春かは
解釈 声絶えず鳴けや鴬一年に再びとだに来べき春かは
注意 この歌は、寛平御時后宮の歌合での歌番号〇〇四であり、その合わせた歌からは初春の季節での鶯の声と云うことで、春の訪れからの初鳴を詠うものとなります。ただし、古今和歌集の編纂の位置からすると、晩春の時期、桜が散り逝く名残を詠うものとしているのでしょうか。不思議な歌です。さて、どちらに取りましょうか。伝統では詞書に従わず散り逝く名残とします。

<参考歌 寛平御時后宮の歌合で合わせた歌>
春二番
左  素性法師
歌番〇〇三
原歌 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
解釈 散ると見て あるべきものを 梅の花 うたて匂ひの 袖にとまれる

今日の古今 みそひと歌 金

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今日の古今 みそひと歌 金

弥生のつごもりの日、花摘みより帰りける女どもを見てよめる 躬恒
歌番一三二 
原歌 ととむへきものとはなしにはかなくもちるはなことにたくふこころか
標準 とゞむべき物とはなしにはかなくもちる花ごとにたぐふこころか
解釈 留むべき物とはなしにはかなくも散る花ごとにたぐふ心か
注意 「たくふこころ」は「寄り添う気持ち」と云う意味です。表面上は「花」は山桜の花なのでしょう。ただ、詞書に「女どもを見てよめる」とありますから、花は姿形を明らかにした年頃の女たちかもしれません。


万葉雑記 色眼鏡 百七七 山人の歌を鑑賞する 私、美人?

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万葉雑記 色眼鏡 百七七 山人の歌を鑑賞する 私、美人?

 今回は、万葉集巻二十の巻頭歌を鑑賞します。いきなりですが、次の歌の隠された歌意は標準的な解説とは全くに違い、「私、きれい?」です。

集歌4293 安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曽許礼
訓読 あしひきの山行きしかば山人(やまひと)の吾に得しめし山づとぞこれ

 いきなり、とぼけた説明でびっくりされたかもしれませんが、少し、この場限りの酔論におつきあいをお願い致します。
 冒頭、紹介した歌は巻二十の巻頭に置かれた二首一組の歌です。それが以下に示すものです。

幸行於山村之時謌二首
先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等、宣賦和謌而奏、即御口号曰
標訓 山村に幸行(いでま)しし時の謌二首
先の太上天皇、陪従(へいじゆ)の王臣(わうしん)に詔(みことのり)して曰はく「それ諸(もろもろの)王卿等(おほつまえつきみたち)、宣(よろ)しく和(こた)ふる謌を賦(よ)みて奏すべし」と、即ち御口号(くちずさ)みまして曰はく、
集歌4293 安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曽許礼
訓読 あしひきの山行きしかば山人(やまひと)の吾に得しめし山づとぞこれ
私訳 葦や桧の生える山に行ったときに、山の人が私に取らしてくれた土産です。これが。

舎人親王應詔奉和謌一首
標訓 舎人親王の、詔(みことのり)に應(おう)じて和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首
集歌4294 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
訓読 あしひきの山に行きけむ山人(やまひと)の心も知らず山人(やまひと)や誰れ
私訳 葦や桧の生える山に移られた、その山の人とその移られた思いも判りません。さて、その山の人とはどの御方でしょうか。
右、天平勝寶五年五月、在於大納言藤原朝臣之家時、依奏事而請問之間、少主鈴山田史土麿、語少納言大伴宿祢家持曰、昔聞此言。即誦此謌也。
注訓 右は、天平勝寶五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時に、事を奏(もう)すに依りて請問(せいもん)の間に、少主鈴(せうしゆれい)山田史土麿の、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく「昔、此の言(ことば)を聞く」と。即ち此の謌を誦(よ)めるなり。


 この歌の時代背景などを説明しますと、天平勝宝五年五月に公務旅行に関する事務報告の内容についての問い合わせがあり、少納言大伴家持と部下である少主鈴山田土麿が大納言藤原朝臣仲麻呂の屋敷で問い合わせへの報告の順番を待っているときに、このような歌を聴いたことがあると山田土麿が伝えた歌を大伴家持が記録したものです。つまり、歌を採歌したのは天平勝宝五年五月ですが、詠われたのはずっと以前のものとなります。
 こうした時、歌を詠った人物と時期を確認しますと、集歌4294の歌の左注の「天平勝寶五年五月」と標題「先太上天皇」から推測しますと、天平勝宝五年辞典での今上天皇が孝謙天皇、太上天皇が聖武天皇、先太上天皇が元正天皇と云うことになります。つまり、「先太上天皇詔」とは元正天皇の御代に元正天皇が発した詔と云うことになります。一方、集歌4294の歌の舎人親王は天平七年十一月に薨去されています。従いまして、これら二首は元正天皇の御代である霊亀元年九月(715)から養老八年二月(724)までの間に詠われた歌と云うことになります。どんなに下っても天平七年を下ることはありません。
 次に歌が詠われた状況を絞って行きたいと思います。
 標題に「幸行於山村之時」とあります。当然、弊ブログにご来場のお方は特に万葉集に興味のあるお方でしょうから、この「山村」は『日本国現報善悪霊異記』に登場し、それを引用した『三宝絵詞』にも「大和国添上郡山村中里、在昔有椋家長公」と載る大和国添上郡山村(奈良市山町付近)ではないか、いまさら、何を問題にするのかと思われるでしょう。それが、標準の解釈です。
 しかしながら、この地域が歌の内容に適うのかと云うと疑問があります。まず、場所は高円山の南方、布留山の北方にあたり、この時期となる霊亀元年六月に続日本紀に「開大倭国都祁山之道」と載るように、その山中では土木工事が盛大に行われています。そのような場所が歌で暗示するような仙人が住む霊域にふさわしいかと云うと疑問です。さらに、可能性として、奈良の都と伊賀の地を最短で結ぶ都祁山の道の開通祝いでの行幸があったのかと云うと、開通の六日前となる六月四日に長親王が薨去されていますので、行幸が予定されていても中止でしょう。まず、行幸は行われていないでしょうし、正史に記録もありません。また、標題の「曰夫諸王卿等、宣賦和謌而奏」の文章からして、譲位以降の聖武天皇の時代とされる神亀から天平年間でもないでしょう。文章は平安時代中期以降とは違い、天皇が最高権威であった時代のもので、その最高権威たる元正天皇の詔として表記されています。このような状況のため、解説書では歌が詠われた時期は不明、行幸の理由も不明、直訳はしてもその歌意は不明と扱い、場所だけは大和国添上郡山村とします。つまり、歌を鑑賞しての「山村」と云う場所比定ではなく、最初に地名「山村」からの決め打ちです。歌意に適うように一般名称ではないかと云う可能性は検討されていないのです。
 弊ブログは、そのような先行する研究や定説には縛られません。そこが酔論・暴論たるゆえんです。まずは、一般名称として扱い、推理しています。そこでは「山村」は山中の寒村と云う意味合いを優先しています。大和国添上郡山村と云う可能性については、歌二首の歌意からして、最初に可能性の検討から排除しています。
 このように「山村」を一般名称と考えますと、歌は元正天皇の御代の霊亀元年九月から養老八年二月までの間に、どこかの非常に寂しい山里に行幸された時のものとなります。そうした時、元正天皇は霊亀三年(養老元年)九月の美濃国への行幸のおり、噂に聞いた岐阜県養老郡養老町の養老の滝付近と推定される美濃国当耆郡の多度山に湧く美泉をご覧になっており、翌年早々二月にこの美泉(醴泉)を目的として再度の行幸をされています。有名な養老年間の元号はこの行幸が由来ですから、相当に気に入られたと思われます。
 もう少し探りますと、集歌4293の歌は「即御口号」と記録しますから天皇が宴の中で口ずさまれたことが判ります。およそこれは「御製(=御(かた)りて製(つく)らせし)」と云う天皇の意向を周囲に漏らして代作させるという宮中での決まり事からははみ出した行為ですから、歌が詠われた宴は非常に砕けたもの宴と思われます。そうしますと、公式の行幸の中でのものではなく、私的な山里への行幸でのものと思われます。当然、お忍びとは云え、天皇の行幸ですから、随員や警護を含めますとそれなりの受け入れの施設が必要となります。およそ、元正天皇が気を許す山里であること、天皇のお忍びであっても大部の人たちが収容可能な施設があることなどを総合しますと、可能性として五か月前にも行幸を行い、また、養老二年二月にも第二回目の行幸をおこなった美濃国当耆郡多度山に湧く美泉ではないでしょうか。
 補注として、現在の漢字感覚とは違いますが、標題「幸行於山村之時」に使われる「村」と云う漢字は中国古典の公式の文章では用いない文字であり俗字と解説され、その意味は「村、墅也。墅、田野的草房」と解説されます。およそ、漢字の世界では村は里や邑よりも家屋もまばらで寂しい処と云う意味合いになります。その漢字の意味合いからしますと、現在の岐阜県養老郡養老町の養老の滝付近と推定される美濃国当耆郡の多度山中に湧く美泉は確実に「山村」と云う場所となります。
 以上の推定で、ほぼ、歌二首が詠われた背景、時期、作歌者の確認は終わりました。およそ、歌は養老二年二月の美濃国当耆郡多度山への行幸でのもので、集歌4293の歌の主は元正天皇であり、集歌4294の歌の主は舎人親王です。

 つぎに歌の内容に遊びたいと思います。
 集歌4293の歌は「吾に得しめし山づとぞこれ」と詠います。言葉遊びで「山人」は文字を入れ替え「人山=仙人」と解釈しますから、現代語解釈では「仙人からの私への贈り物はこれです」となります。すると、贈り物とは何かと云うことが重要になります。
 ここで、元正天皇は女帝で養老二年では三十七歳です。もう、女盛りは過ぎ、天武天皇の定めた法度では三十五歳で老女の分類となりますから、「老い」と云うものを気にする年頃と思われます。そうした時、続日本紀に霊亀から養老に改元した時の詔があります。その部分を次に紹介します。

<養老改元の詔より>
到美濃国不破行宮、留連数日。因覧当耆郡多度山美泉。自盥手面、皮膚如滑。亦洗痛処、無不除愈、在朕之躬、甚有其験。又就而飲浴之者、或白髪反黒、或頽髪更生、或闇目如明。自余痼疾、咸皆平愈。

 この詔の重要なことは元正天皇が多度山の美泉を試してみたところ、「私のお肌はすべすべに、また、髪は黒髪豊かになった」と云うことです。
 もう、お判りでしょう。歌の「これ」とは、詔の「在朕之躬、甚有其験」と云うように「元正天皇が『自盥手面、皮膚如滑(タライで手や顔を洗うと、その肌はすべすべ)』」と云う状況を「これ」と云っているのです。ですから最初に説明しました隠された意図は「私、きれい?」なのです。

集歌4293 安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曽許礼
訓読 あしひきの山行きしかば山人(やまひと)の吾に得しめし山づとぞこれ
私訳 葦や桧の生える山に行ったときに、山の人が私に取らしてくれた土産です。これが。

 元正天皇は中年の女性です。ですから、いくらなんでも「噂に上る多度山の美泉を試してみたら、私、きれいになったでしょう」って云う気持ちを、近習の美しく若い女官に代作させることはしないでしょう。まして、歌が上手の大伴旅人や笠金村たちに代作させる可能性もないでしょう。標題に示す「即御口号(くちずさまれて)」は、ちょうど、評判の化粧品を使ってみて、その効果があったと確信した中年女性の感覚ではないでしょうか。
 もしこれが正しい解釈としますと、その反歌を詠う人の立ち位置は非常に難しいものとなります。歌の「これ」に対して「そうですね」と同意しますと、では、「今までは、おばさん顔だったの」と云うことになります。しかしながら、「私、きれいになったでしょう」って華やぎ問いかける女性に、「そうではありません。もともとですよ」ってこともまた云えない話です。化粧品の効能を語る女性に「なにをやっても、変わらない」と受け取られては大変です。それもその相手は独身の元正天皇です。
 さあ、どうしましょう。
 その回答が舎人親王の次の歌です。親王は女性に達者です。機嫌を損ねてはいけない女性の「わたし、きれいになった?」との問いかけに、答えて答えないという態度を示します。元正天皇の「これ」は地雷原です、触れてはいけません。それが判る親王は「山行之可婆 山人乃」の方にだけ反応を示します。「さて、高貴な貴女が会うようなお方って、誰ですか」って、答えをはぐらかします。元正天皇は天皇に就任する前の氷高皇女の時代、高市皇子の室に入った可能性がありますから、地域的に壬申の乱の歴史を踏まえ、舎人親王は、わざと、「山人」を天武天皇や高市皇子などの面影と解釈しましたとすることも可能です。取り様によっては「これ」に対して同意した上での、土産をくれた相手は誰ですかとも取れますから。この問いかけに答えて答えない態度を取った舎人親王は、あとは、歌を良くする他の風流人に任せれば良いのです。誰かが、「わたし、きれいになった?」との問いかけに答えるでしょう。

集歌4294 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
訓読 あしひきの山に行きけむ山人(やまひと)の心も知らず山人(やまひと)や誰れ
私訳 葦や桧の生える山に移られた、その山の人とその移られた思いも判りません。さて、その山の人とはどの御方でしょうか。

 さて、万葉集は面白いもので、問いかけに対して、答えて答えていない歌が他にもあります。それが、近江遷都の時の額田王と井戸王との歌です。集歌19は標題「額田王下近江國時謌、井戸王即和謌」からすれば、応答歌となるのですが、歌意直接はそうではなりません。額田王は大和から近江への移住での感傷を詠いますが、対して、井戸王は遷都の行列の中での額田王の衣装の冴えを誉め、それを詠います。男からすれば、頓珍漢な話ですが、女からすれば重要なことです。舎人親王はこのような女性の機微が判る人だったのではないでしょうか。

集歌18 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 雲はなぜ三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心と云うものがあるのならば、このように隠すでしょうか。

集歌19 綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢
訓読 綜麻形(へそがた)の林しさきの狭野(さの)榛(はり)の衣(ころも)に著(つ)く成(な)す目につく吾(わ)が背
私訳 綜麻形の林のはずれの小さな野にある榛を衣に摺り著け、それを身に着けておられる。私の目にはそれが相応しく見えます。私が従う大切な貴女よ。
右一首謌、今案不似和謌。但、舊本載于此次。故以猶載焉。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむ)がふるに和(こた)ふる歌に似はず。但し、旧き本には此の次(しだひ)に載す。故に以つてなお載す。

 今回もまた、ただの言いがかりの与太話です。すぐに忘れて頂ければ幸いです。
 ご了解のように、どの解説書でも「山村」は大和国添上郡山村(奈良市山町付近)です。そして、そこは聖武天皇時代、狩猟の禁足地となるような場所です。そのような場所柄、集歌4293の歌の「許礼(=これ)」は狩りの獲物と云う解釈をします。有名なムササビが逃げ惑ったのもこの近辺です。
 ただ、女性の置く地雷原に何度も生死をさまよえば、多少はひねくれた歌の鑑賞が許されるかもしれません。それが男女が等しく歌を詠う奈良時代の和歌の世界かもしれません。

万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1738

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1738

詠上総末珠名娘子一首并短謌
標訓 上総(かみつふさ)の末(すゑ)の珠名娘子を詠める一首并せて短歌
集歌1738 水長鳥 安房尓継有 梓弓 末乃珠名者 胸別之 廣吾妹 腰細之 須軽娘子之 其姿之 端正尓 如花 咲而立者 玉桙乃 道徃人者 己行 道者不去而 不召尓 門至奴 指並 隣之君者 預 己妻離而 不乞尓 鎰左倍奉 人皆乃 如是迷有者 容艶 縁而曽妹者 多波礼弖有家留

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 しなが鳥 安房(あほ)に継ぎたる 梓弓(あずさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むねわ)けの 広き我妹(わぎも) 腰細(こしほそ)の すがる娘子(をとめ)の その姿(かほ)の きらきらしきに 花のごと 笑(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道(みち)行(ゆ)く人は おのが行く 道は行(い)かずて 呼(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのつま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵(かぎ)さへ奉(まつ)る 人皆(みな)の かく惑(まと)へれば たちしなひ 寄(よ)りてぞ妹は たはれてありける
意訳 東は安房の国に地続きの、上総の国周淮の郡の珠名娘子は、胸乳の豊かなかわいい女、すがれ蜂のように腰の細い娘子だが、その姿かたちがすっきりしている上に、花のようにほほえんで立っているので、道を行く交う人はといえば、自分の行くべき道は行かずに、呼びもせぬのについその門口に来てしまう。まして、軒を並べる隣のお主にいたっては、前もって妻と縁を切って、頼みもせぬのに大事な鍵さえ差し出す始末。世の男という男がみんなこれほどまでに血迷うものだから、ますます品を作ってしなだりかかり、この女はただはしたなく振る舞っていたという。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 御長鳥(みながとり) 安房(あほ)に継ぎたる 梓弓(あずさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むねわ)けし 広き吾妹(わぎも) 腰細(こしほそ)し すがる娘子(をとめ)し その姿(かほ)し 端正(きらきら)しきに 花しごと 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道往(ゆ)く人は 己(おの)し行く 道は去(い)かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)し至りぬ さし並ぶ 隣し君は あらかじめ 己妻(おのつま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵(かぎ)さへ奉(まつ)る 人皆(みな)の かく迷(まと)へれば 容(かほ)艶(よ)きし 縁(より)てぞ妹は 戯(た)はれてありける
私訳 天の岩戸の大切な長鳴き鳥の忌部の阿波の安房に云い伝わり、弓の弦を継ぐ梓弓の末弭(すえはず)の周淮の郡に住む珠名は、乳房が豊かに左右に分かれ大きな胸の愛しい娘、腰が細くすがる蜂のような娘の、その顔の美しく花のような笑顔で立っていると、美しい鉾を立てる官道を行く人は、その行くべき道を行かないで、呼びもしないのに家の門まで来てしまう。家が立ち並ぶ隣の家のお方は、あらかじめ自分の妻と離縁して頼みもしないのに鍵まで渡す。多くの人がこのように心を惑えるので、美貌の理由から娘は、心が浮かれていたことよ。

注意 歌の鑑賞態度が全くに違います。弊ブログでは忌部氏の伝承にかかわると解釈していますが、伝統のものではそうではありません。それが冒頭の「水長鳥 安房尓継有」の句の解釈に現れます。この立場の違いが、歌全体の鑑賞に波及します。結果、「多波礼弖有家留」の解釈に大きく影響を与えます。「たはれ」と云う言葉は、直接に「淫ら」を意味しませんが、江戸期以降の伝統では「淫ら・淫乱」と解釈します。判り易く、動詞の「たはふる」ですと古語では「ふざける」・「冗談を言う」・「遊び呆ける」が先にあり、「淫らなことをする」は派生解釈です。

今日の古今 みそひと歌 月

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今日の古今 みそひと歌 月

弥生のつごもりの日、雨の降りけるに、藤の花を折りて人に遣はしける 業平朝臣
歌番一三三 
原歌 ぬれつつそしひてをりつるとしのうちにはるはいくかもあらしとおもへは
標準 ぬれつつぞしひてをりつる年の内に春はいくかもあらじと思へば
解釈 濡れつつぞしひて折りつる年のうちに春はいく日もあらじと思へば
注意 「しひてをりつる」は「強いて折りつる」と「強いて居りつる」との解釈が成り立ちます。三月三十一日と云う暦の上での「春」と云う日の最後の日の歌ですから、春雨の中、それでも咲いていたと取るか、貴方のために雨の中を頑張って手折ったと取るかは感性です。

今日の古今 みそひと歌 火

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今日の古今 みそひと歌 火

亭子院歌合の春の果ての歌 躬恒
歌番一三四 
原歌 けふのみとはるをおもはぬときたにもたつことやすきはなのかけかは
標準 けふのみと春をおはぬ時だにも立つことやすき花のかげかは
解釈 今日のみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花の蔭かは
注意 亭子院歌合は左右に陣取る歌い手が歌の優劣を競うと云うより、事前にテーマに合わせた歌を判事に提出し、その判事の講評を聞いて作歌技術の向上を目指す勉強会のようなものだったと思われます。そのため、この組は左右共に凡河内躬恒の作品となっています。歌は、弥生のつごもりの日(三月三十一日)の歌で、「たつことやすき」と桜の花の季節は移ろい易い様を詠います。弥生のつごもりの日の風情としては、さて、次の参考歌と、この歌とどちらが相応しいでしょうか。推定で宇多法皇側近、六位蔵人藤原忠房の判定は「持」(引き分け)としています。

<参考歌 亭子院歌合>
三月十番
左  凡河内躬恒
歌番号三九 
原歌 はなみつつ をしむかひなく けふくれて ほかのはるとや あすはなりなむ
解釈 花見つつ 惜しむかひなく 今日暮れて ほかの春とや 明日はなりなむ

今日の古今 みそひと歌 水

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今日の古今 みそひと歌 水

古今和歌集巻第三
夏歌
題しらず よみ人しらず
歌番一三五 
原歌 わかやとのいけのふちなみさきにけりやまほとときすいつかきなかむ
標準 わがやどの池の藤波さきにけり山郭公いつかきなかむ
解釈 我が宿の池の藤波咲きにけり山郭公いつか来鳴かむ
左注 この歌ある人のいはく、柿本人麿がなり
注意 この歌から卯月となり、夏です。それで組み合わせは藤波と郭公となります。作歌技巧では「池」と「波」の縁語、「池」と「山」の対立する詞で組み立てているとしますし、「波」と「山」は語調を整えるものともします。

今日の古今 みそひと歌 木

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今日の古今 みそひと歌 木

卯月に咲ける桜を見てよめる 紀利貞
歌番一三六 
原歌 あはれてふことをあまたにやらしとやはるにおくれてひとりさくらむ
標準 あはれてふ事をあまたにやらじとや春におくれてひとりさくらむ
解釈 あはれてふことをあまたにやらじとや春に遅れてひとり咲くらむ
注意 夏のお約束は藤波と郭公です。それを前提とした歌です。ただ、それだけです。

今日の古今 みそひと歌 金

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今日の古今 みそひと歌 金

題しらず よみ人しらず
歌番一三七 
原歌 さつきまつやまほとときすうちはふきいまもなかなむこそのふるこゑ
標準 さ月まつ山郭公うちはぶき今もなかなんこぞのふるこゑ
解釈 五月待つ山郭公うちはぶき今も鳴かなん去年の古声
注意 「いまもなかなむ」は「今であっても、鳴いて欲しい」との意味ですので、なにがしら鳥の羽音はしても、郭公は鳴いていないようです。夏のお約束、藤波と郭公を下にしたような歌です。

万葉雑記 色眼鏡 百七八 評論と論拠 柿本人麻呂の歌

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万葉雑記 色眼鏡 百七八 評論と論拠 柿本人麻呂の歌

 約二年前、「万葉集と日中交流 白龜元年調布の礼」と云う題で、柿本人麻呂時代の漢籍将来問題を取り上げました。今回、再び、この問題について遊んでみたいと思います。
 前回では次のような文を紹介し、なぜ、テーマとして取り上げたかを紹介しました。

 昭和中期のものに人麻呂の作品には山上憶良や大伴旅人では確認できる『文選』や『遊仙窟』の姿が見えず、また、『芸文類聚』も見えないとします。そこから人麻呂の人物像を推定して、彼は漢文に弱く、早く中級貴族(朝臣の身分)の子弟として舎人の身分で宮中に出仕をしたが、漢文章の能力に欠け、中年以降は役人としては能力不足により不遇であったと説明します。そして、『懐風藻』には彼の名が無いことから、その漢文章の能力に欠けていたことの証とします。

 当然、このような論評をする人の基礎的、了解事項として、「柿本人麻呂の時代、つまり、近江大津宮から飛鳥浄御原宮の時代までに主要な漢籍、例えば、四書五経、漢書、後漢書、晋書、文選、芸文類聚、説文解字などは大和に将来しており、朝廷の大学などで閲覧・学習が出来たはずである」と云うものがあります。また、柿本人麻呂の文章に漢籍の影響が薄いから、教養が不足しているとの指摘では、彼と同時代人の作品にはそのような漢籍の影響が確認できるという証明があるはずです。そうでなければ、学問ではなく、私と同じような素人が為す焼酎片手での与太話以外のなにものでもありません。なお、そのような議論において、懐風藻は論拠にはなりません。懐風藻を序文から葛井連廣成の作品までを鑑賞しますと、本来の懐風藻と現在に伝わる懐風藻とは違うであろうと推認され、元々の作品に柿本人麻呂や山上憶良の作品があったかもしれないのです。
 一方、日本書紀や古事記、また、万葉歌人である大伴旅人や山上憶良たちの作品にはそのような漢籍の影響や引用は証明された事実です。ただし、柿本人麻呂時代と大伴旅人・山上憶良たちの時代では大陸との文化交流面で大きな違いがあります。近江大津宮から飛鳥浄御原宮の時代は朝鮮半島問題処理のために大陸や朝鮮半島諸国との使節団の交換は有りましたが、政治体制や文化・科学技術導入を目的とした使節団派遣と云う事業は行われていません。文化や科学技術の導入を主目的とした使節団派遣の復活は山上憶良も一員であった第七次遣唐使以降です。特に第八次遣唐使は玄宗皇帝から特別に市中からの漢籍購入の許可得て、中国側も驚き、正史に記録するほどに長安市中の書籍をことごとく購入したとします。それに加えて、この長安市中の書籍をことごとく購入した第八次遣唐使は四隻構成の船団、全部が無傷で大宰府に帰着しています。
 ここまでが、「万葉集と日中交流 白龜元年調布の礼」で述べました内容からのおさらいです。

 つぎに以下に紹介する人麻呂が詠う「泣血哀慟作歌」の内、第一群となる集歌207の長歌を見てください。ある有望な若手研究者はこの歌の中での「遣悶流」と云う表現に注目します。この表記は同じ人麻呂が詠う集歌196の歌に「遣悶流 情毛不在」という表記で使われ、この「遣悶流」と云う表現は人麻呂独特の表現とされています。この表現に対して、標準では「なぐさもる=慰もる」と訓じます。そうした時、漢字文字から「遣」を「なぐさ」とは訓じられませんから、「遣悶」を「なぐさも」と訓じるということになります。そうした時、この訓じの由来は何かと云うことになります。

柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短哥
標訓 柿本朝臣人麿の妻死りし後に泣(い)血(さ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首并せて短歌
集歌207 天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不己行者 人目乎多見 真根久往者 人應知見 狭根葛 後毛将相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣渕之 隠耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隠如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使乃言者 梓弓 聲尓聞而 将言為便 世武為便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴
訓読 天飛ぶや 軽し道は 吾妹児し 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど 止(や)まず行かば 人目を多(おほ)み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船し 思ひ憑(たの)みに 玉かぎる 磐(いは)垣(かき)淵(ふち)し 隠(こ)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ去(い)ぬしがごと 照る月の 雲隠(くもかく)るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉(もみちは)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまずさ)の 使(つかひ)の言へば 梓(あずさ)弓(ゆみ) 音に聞きに 言はむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きにあり得(え)ねば 吾が恋ふる 千重(ちへ)し一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 吾妹子が 止(や)まず出で見し 軽し市に 吾が立ち聞けば 玉(たま)襷(たすき) 畝傍の山に 喧(な)く鳥し 声もそ聞けず 玉桙し 道行く人も ひとりだに 似てし去(ゆ)かねば 術(すべ)を無み 妹し名呼びに 袖ぞ振りつる

 この「遣悶流」の表記は万葉仮名での表現ではないであろうとしての訓じ「慰もる」は漢語熟語「遣悶」(日本語の遣悶する)からの意を汲んだ戯訓であろうと推定します。一方、中国の漢字漢文の原義からしますと「遣悶」と云うものを日本語に訳せば「胸中のもだえを遣る、イラつく気持ちを現す」と云うことになります。中国の漢字漢文の原義からは日本語訓じの「慰もる」は少し遠い戯訓となります。
 ところで、日本語には「遣悶する(=慰む、憂さをはらす)」という言葉があり、この日本語を中国語に翻訳する時には「消愁遣悶」と云う言葉を新たに造語して対応しているようです。日本では慣習的に「遣悶」を中国から輸入された漢語熟語と捉えていますが、中国では逆に日本語の熟語として捉えています。これはある種の「科学」、「哲学」、「郵便」などの言葉と似たところがあります。
 また、国文学を研究する人が漢文に深く親しんでいるというのは、ある種の色眼鏡です。漢文章に慣れていない国文学者が万葉集を鑑賞する時、単純に漢字文字列の相同をもって、それら相互の影響を提案することがあります。その典型の例としてこの「遣悶」と云う文字列があります。ある研究者は正倉院文書として残る『杜家立成雑書要略(杜家雑書)』に「今欲向爐擧酒、冀以拂寒、入店持杯、望其遣悶」と云う文章があり、この文字列から杜家雑書と柿本人麻呂の関係を指摘します。さらに、二十巻本万葉集に先立つとされ、巻一と巻二の中核を為す原万葉集成立以降に成った唐代の詩歌、杜甫の「遣悶奉呈嚴公二十韻」、「遣悶戲呈路十九曹長」などや李群玉の「旅泊」などから「遣悶」と云う文字列との歴史や関係を探ります。当然、漢文章に慣れていますと、杜家雑書の「遣悶」は「酒屋に入って、酒で憂さを晴らす」と云うものですから、「遣悶」は「胸中のもだえを遣る」との原義のままです。日本語での「慰める」と云うものからしますと相当に遠いものとなります。また、杜甫の「遣悶奉呈嚴公二十韻」での「遣悶」は「鬱々とした気持ち」のような意味合いですから「慰める」と云う意味合いはありません。このように人麻呂歌での「遣悶流」と杜家雑書や杜甫たち詩人の使う「遣悶」とは、その言葉を使う場面や意味合いが違うということをすぐに認識すると思います。先に説明しましたが、中国語の「遣悶」は熟語でも慣用句でもありません。構文の上での用字選択の結果だけです。そのため、日本語の「遣悶」と云う漢語熟語に対応するために中国語では「消愁遣悶」と云う言葉が必要になるのです。つまり、漢文章に親しんでいる人が、積極的に人麻呂歌での「遣悶流」と云う文字列解釈の説明に杜家雑書や杜甫の漢詩を引用することは有り得ないことになります。それに古語「なぐさ」は「和ぐ+さ」とも推定される言葉で平安時代前期頃までは古今和歌集仮名序に「歌をいひてぞ、なぐさめける」、「歌にのみぞ、心をなぐさめける」などと記すように「和む、心安らぐ」と云う意味合いの強い言葉です。鎌倉時代以降の解釈とは言葉の感覚が違います。本来ですと、「遣悶流」と云う文字列に対する伝統の訓じ「なぐさもる」と漢字文字の原義との相違を提示し、伝統訓じ「なぐさもる」となっていることに焦点を当て、説を述べるようなものです。
 追記として正倉院文書である杜家雑書の収納時期と万葉集成立の時期とを比べて、杜家雑書の収納時期の方が早いから、柿本人麻呂はこの「入店持杯、望其遣悶」文章から「遣悶」と云う文字列配置を知ったであろうとの論を進める人もいるようです。もし、そのような人が研究者でしたら、少し、論理組み立てに難があります。文字列が使われる泣血哀慟作歌の集歌207の歌の成立は人麻呂の二度目の紀伊行幸に随伴した大宝元年(七〇一)十月以前となる文武三年(六九九)晩秋であろうと推定されています。すると、杜家雑書が人麻呂に影響を与えたと推定する場合は、杜家雑書は文武年間以前に大和に将来していたと証明する必要がありますし、どのように正倉院にその文書を納めた光明子に引き継がれたかと云う問題を解明する必要があります。それに、堂々巡りになりますが、人麻呂の「遣悶流」と杜家雑書の「望其遣悶」は意味合いが違います。この違いの由来の解決もまた重大な要点です。

 ここで、人麻呂の「遣悶流」と云う文字列を「なぐさもる」について、万葉集の中に類型を探しますと、集歌207の歌の「遣悶流 情毛有八等」に対して同じ人麻呂歌の集歌196の歌では「遣悶流 情毛不在」ですし、丹比真人笠麿が詠う集歌509の歌では「名草漏 情毛有哉跡」とあります。ここから「遣悶流 情毛有八等」は「なぐさもる こころもありやと」との訓じが推定されます。山上憶良は集歌889の歌で「奈具佐牟流 許々呂波阿良麻志」、集歌898の歌では「奈具佐牟留 心波奈之尓」と詠いますから、これらは類型歌であろうと強く推定されます。すると、「遣悶流」は「なぐさもる」または「なぐさむる」と訓じるのが相当であろうと推定しても良いと考えられます。すると、「遣悶流」を「なぐさもる」と訓じるものは説明しましたように中国からの漢語熟語に由来を持ちませんから、人麻呂独特の造語と云うことになります。
 ただし、万葉集中で「遣悶」と云う文字列は明日香皇女木瓲殯宮之時柿本朝臣人麻呂作謌の標題を持つ集歌196の歌の「遣悶流 情毛不在」とこの柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作謌の標題を持つ集歌207の歌の「遣悶流 情毛有八等」との二首だけに使われる特徴的な表記です。他方、この集歌207の歌では「真根久往者」、「名延之妹者」、「世武為便不知尓」は特徴的に音を優先した万葉仮名として文字群を扱っていますから、同様に「遣悶流 情毛有八等」もまた万葉仮名的な扱いでの表記かもしれません。従いまして、可能性としてこの「遣悶流」と云う文字列に対する類型歌が存在しなくて、文字直接からの「やりもゆる」のような訓じを排除できないことになります。そうしますと、この「真根久」と云う文字群に漢語熟語の由来を求めるのはナンセンスですから、等しく「遣悶流」にそれを求めるのもナンセンスなのかもしれません。
 可能性において、文字直接からのこの「やりもゆる」を「やり+もゆる」としますと、「心を慰める+ゆらゆら立ち上がる」のような意味合いを持つ複合語かもしれないのです。そうしますと、単純な「なぐさめる」と云う言葉よりも、「心を安らかにする気持ちがゆらゆらと湧きあがる」と云うものとなり、さらに深い感情表現と云うことになります。確かに古語に「やりもゆる」と云う言葉は有りませんが、ただ、この言葉は挽歌と云う人の死と云う場面を詠うものとしてはふさわしいのではないでしょうか。

<「やる」の用法>
集歌346 夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方
訓読 夜光る玉といふとも酒飲みて情(ここら)を遣(や)るにあに若(し)かめやも
私訳 夜に光ると云う貴重な玉といっても、酒を飲んで鬱々とした気持ちを慰めるのにどうして及びましょう。

<「もゆ」の用法>
集歌2177 春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞
訓読 春は萌(も)よ夏は緑に紅(くれなゐ)し綵色(まだら)にそ見ゆ秋し山かも
私訳 春は木々が萌え立ち、夏は木々が緑に包まれる。その木々が紅に染まりまらだ模様に見える、その秋の山なのでしょう。


 今回は季報「萬葉集」からの言い掛かりです。それしか、ありません。ものは完全なる与太話ですし、馬鹿話です。ですから、いつものように読み捨てでお願いします。




<参考資料;唐漢詩>
遣悶奉呈嚴公二十韻より その一 杜甫(初唐の詩人)
白水魚竿客 清秋鶴發翁
胡為來幕下 只合在舟中
黄巻真如律 青袍也自公
老妻憂坐痺 幼女問頭風

遣悶戲呈路十九曹長 杜甫
江浦雷聲喧昨夜
春城雨色動微寒
黄鸝並坐交愁濕
白鷺群飛大劇乾
晩節漸於詩律細
誰家數去酒杯寛
惟吾最愛清狂客
百遍相看意未闌

旅泊 李群玉(晩唐の詩人)
搖落江天里 飄零倚客舟
短篇才遣悶 小釀不供愁
沙雨潮痕細 林風月影稠
書空閑度日 深擁破貂裘


万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1740

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1740

詠水江浦嶋子一首并短謌
標訓 水江(みずのえ)の浦嶋の子を詠める一首并せて短歌
集歌1740 春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得乎良布見者 古之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝多 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人乃 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡 宅毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓 垣毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯 如本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 叨袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴 由奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 春の日の 霞(かす)める時に 住吉(すみのへ)の 岸に出で居(い)て 釣船の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江(みづのへ)の 浦(うら)の島子(しまこ)の 鰹(かつを)釣り 鯛釣りほこり 七日(なぬか)まで 家にも来ずて 海境(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の 神の女(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向ひ 相(あひ)とぶらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世(とこよ)に至り 海神(わたつみ)の 神の宮(みや)の 内のへし 妙なる殿(との)に たづさはり ふたり入り居(ゐ)て 老(おひ)もせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間(よのなか)の 愚(おろ)か人の 我妹子に 告(つ)げて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告(の)らひ 明日(あす)のごと 我れは来(き)なむと 言ひければ 妹が言へく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅(かた)めし言(こと)を 住吉(すみのへ)に 帰り来(きた)りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あらしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年(みとせ)の間(ほど)に 垣もなく 家(いえ)失(う)せめやと この箱を 開きて見てば もとしごと 家はあらむと 玉(たま)櫛笥(くしげ) 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺(とこよへ)に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り 臥(こ)いまろび 足ずりしつつ たちまちに 心(こころ)消失(かう)せぬ 若ありし 肌も皺(しわ)みぬ 黒(ぐろ)くありし 髪も白(しろ)けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後(のち)つひに 命死にける 水江(みづのへ)の 浦の島子が 家ところ見ゆ
意訳 春の日の霞んでいる時などに、住吉の崖に佇んで沖行く釣り舟が波に揺れているさまを見ていると、過ぎ去った遠い世の事どもがひとしお偲ばれるのであります。あの水江の浦の島子が、鰹を釣り鯛を釣って夢中になり、七日経っても家にも帰らず、はるか彼方わたつみの国との境までも越えて漕いで行って、わたつみの神のお姫様にひっこり行き逢い、言葉を掛け合っい話がきまったので、行末を契って常世の国に至り着き、わたつみの宮殿の奥の奥にある神々しい御殿に、手を取り合って二人きりで入ったまま、年取ることも死ぬこともなくいついつまでも生きていられたというのに、この世の愚か人島子がいとしい人にうち明けたのであった。「ほんのしばらく家に帰って父さんや母さんに事情を話し、明日にでも私は帰って来たい」と。こううち明けると、いとしい人が言うには、「ここ常世の国にまた帰って来て、今のように過ごそうと思うのでしたら、この櫛笥、これを開けないで下さい。けっして」と。ああ、そんなにも堅く堅く約束したことであったのに、島子は住吉に帰って来て、家を探しても家も見つからず、里を探しても里も見当たらないので、これはおかしい、変だと思い、そこで思案を重ねたあげく、「家を出てからたった三年の間に、垣根ばかりか家までもが消え失せるなんていうことがあるものか」と、「この箱を開けて見たならば、きっと元どおりの家が現われるにちがいない」と。そこで櫛笥をおそるおそる開けたとたんに、白い雲が箱からむくむくと立ち昇って常世の国の方へたなびいて行ったので、飛び上がりわめき散らして袖を振り。ころげ廻って地団駄を踏み続けてうちに、にわかに気を失ってしまった。若々しかった肌も皺だらけになってしまった。黒かった髪もまっ白になってしまった。そしてそのあとは息も絶え絶えとなり、あげくの果てには死んでしまったという、その水江の浦の島子の家のあった跡がここに見えるのであります。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 春し日し 霞(かす)める時に 墨吉(すみのへ)し 岸に出で居(い)て 釣船し とをらふ見れば 古(いにしへ)し 事ぞ思ほゆる 水江(みづのへ)し 浦島(うらしま)し子し 堅魚(かつを)釣り 鯛釣り矜(ほこ)り 七日(なぬか)まで 家にも来ずて 海境(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)し 神し女(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向ひ 相(あひ)眺(あとら)ひ 言(こと)し成しかば かき結び 常世(とこよ)に至り 海若(わたつみ)し 神し宮(みや)の 内し重(へ)し 妙なる殿(あらか)に 携(たづさ)はり ふたり入り居(ゐ)て 老(おひ)もせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを 世間(よのなか)し 愚人(おろかひと)の 吾妹子に 告(つ)げて語らく しましくは 家し帰りて 父母に 事も告(の)らひ 明日(あす)しごと 吾は来(き)なむと 言ひければ 妹し答へく 常世辺(とこよへ)し また帰り来て 今しごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅(かた)めし言(こと)を 墨吉(すみのへ)に 還り来(きた)りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 恠(あや)しみと そこに思はく 家ゆ出でて 三歳(みとせ)し間(ほど)に 垣もなく 家滅(う)せめやと この箱を 開きて見てば もとし如(ごと) 家はあらむと 玉篋(たまくしげ) 少し開くに 白雲し 箱より出でて 常世辺(とこよへ)に 棚引(たなび)きぬれば 立ち走り 叫び袖振り 反(こひ)側(まろ)び 足ずりしつつ たちまちに 情(こころ)消失(かう)せぬ 若ありし 膚も皺(しわ)みぬ 黒(ぐろ)かりし 髪も白(しろ)けぬ ゆなゆなは 気(き)さへ絶えて 後(のち)つひに 命死にける 水江(みづのへ)し 浦島し子し 家地(いへところ)見ゆ
私訳 春の日の霞んでいる時に、住吉の岸に出て佇み、釣舟が波に揺れているのを見ると、遠い昔のことが偲ばれる。水江の浦の島子が、鰹を釣り、鯛を釣って皆にその腕を誇り、七日間も家に帰らず、海の境を越えて漕いで行くと、海神の神の娘に偶然行き遭って、互いに求め合い、愛し合う約束が出来たので、夫婦の契りを結び、常世に至り、海神の宮殿の奥深くの立派な御殿に、手を取り合って二人で入って暮した。そうして老いもせず、死にもせず、永遠に生きていられたというのに、人の世の愚か者が妻に告げて言うことには、すこしだけ家に帰って、父と母に事情を告げて、明日にでも帰って来ようと云うので、妻が言うことには、この常世の国の方にまた帰って来て、今のように夫婦で暮そうと言うのなら、この箱をあけていけません、きっと。と、そんなにも堅くした約束を、島子は住吉に帰って来て、家はどこかと見るけれども家は見つからず、里はどこかと見るけれども里は見当たらず、不思議がって、そこで思案することには、家を出て三年の間に、垣根も無く家が消え失せてしまうとはと、この箱を開けてみれば、昔のように家はあるだろうと、玉の箱を少し開けると、白い雲が箱から出て来て、常世の国の方まで棚引いて行ったので、立ち走り、叫びながら袖を振り、転げ回り、地団駄を踏みながら、すぐに気を失ってしまった。島子の若かった肌も皺ができ、黒かった髪の毛も白くなった。後々は息さえ絶え絶えになり、挙句の果て死んでしまったという。その水江の浦の島子の家のあったところを見たよ。

注意 それぞれの言葉の解釈、語尾などが相当に違っています。この解釈の相違はこの歌だけでなく、他の歌の解釈にも影響が現われて来ます。伊藤氏の訓じは伝統のものですが、原歌のままかと云うとそうではありません。伝統による創意工夫の下の訓じです。

今日の古今 みそひと歌 月

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今日の古今 みそひと歌 月

題しらず 伊勢
歌番一三八 
原歌 さつきこはなきもふりなむほとときすまたしきほとのこゑをきかはや
標準 五月こばなきもふりなん郭公まだしきほどのこゑをきかばや
解釈 五月来ば鳴きも古りなん郭公まだしきほどの声を聞かばや
注意 「またしきほとの」は「まだし(未だし)+き(季)+ほど」として、「まだその季節ではない」と解釈します。ただ、「まだし(未だし)+き(生)+ほど」としますと、鳴き声は聞こえますが、まだまだ、鳴き始めで去年聞いたような美しい声ではないとなります。伝統では、五月ならよく聞く声を、鳴き声稀なこの四月に聞かせて欲しいとします。さらに「またし(全たし)+き(生)+ほど」と云う解釈も成り立ちます。およそ、伊勢の歌ですから、人が願うような鑑賞の答えが一つとはならないかもしれません。

今日の古今 みそひと歌 火

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今日の古今 みそひと歌 火

題しらず よみ人しらず
歌番一三九 
原歌 さつきまつはなたちはなのかをかけはむかしのひとのそてのかそする
標準 さつきまつ花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする
解釈 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
注意 古くから端午の節句では薬狩りを行い、花橘を玉に貫きます。つまり、歌には昔の端午の節句の宴や薬玉か、玉たすきの贈り物があります。鎌倉時代以降とは違い、平安時代までは端午の節句は女児節ともされ、若い女性が着飾り、薬狩りや花飾りの玉で楽しむ祭日です。そのような背景を持った歌です。尚武・勝負の語呂合わせの時代ではありません。

今日の古今 みそひと歌 水

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今日の古今 みそひと歌 水

題しらず よみ人しらず
歌番一四〇
原歌 いつのまにさつききぬらむあしひきのやまほとときすいまそなくなる
標準 いつのまにさ月きぬらんあしひきの山郭公今ぞなくなる
解釈 いつのまに五月来ぬらんあしひきの山郭公今ぞ鳴くなる
注意 この歌に何かあるでしょうか、歌はこのままです。ある注釈書には「二条后の歌」とあるようです。この二条后は藤原高子で、清和天皇の女御であり陽成天皇の生母です。ただ、政争に巻き込まれ皇太后の位をはく奪されています。その後、古今和歌集の時代までには死後ですが復権しています。歌ではなく、そのような背景で取られた歌かもしれません。

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