October 28, 2020, 4:46 pm
集歌一〇九三
原文 三毛侶之 其山奈美尓 兒等手乎 巻向山者 継之宣霜
訓読 三諸しその山並に子らが手を巻向山は継しよろしも
私訳 神が宿ると云う御室(みむろ)の、その山波に愛しい我が子が手を合わせ向ける、そのような名を持つ巻向山は山波の継づきが良いようです。
集歌一〇九四
原文 我衣 色服染 味酒 三室山 黄葉為在
訓読 我が衣色つけ染めむ味酒三室し山は黄葉(もみち)しにけり
私訳 私の衣を色染めましょう。美味しい噛み酒を神に奉げる、その神が宿る御室(みむろ)の山は黄葉しました。
左注 右三首、柿本朝臣人麿之謌集出
注訓 右の三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
注意 原文の「色服染」は、標準解釈では「色取染」に校訂して「色とり染めむ」と訓じますが、ここでは原文のままに訓しています。なお、一部に「我衣服 色染」とし「我が衣にほひぬべくも」と訓じるものもあります。
集歌一〇九五
原文 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之檜原 所念鴨
訓読 三諸(みもろ)つく三輪山見れば隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)し檜原(ひはら)そ念(おも)ほゆるかも
私訳 神々が宿る御室(みむろ)として三輪山を眺めると、その奥にある隠口の泊瀬にある檜原をも偲ばれます。
注意 飛鳥時代以降の三輪は、大三輪寺を中心とする仏教寺院が立ち並ぶ仏教の聖地です。また、三輪山は神道の聖地でもあります。そこで原文の「三諸就」を解釈しました。
集歌一〇九七
原文 吾勢子乎 乞許世山登 人者雖云 君毛不来益 山之名尓有之
訓読 吾が背子を乞ふ巨勢山(こせやま)と人は云へど君も来まさず山し名にあらし
私訳 「請う背(=女子から恋人を乞い求めても良い)」と、その巨勢山の地名の由来を人々は話すが、それなのに便りも貴方もやってこない。ただ、それは山の名だけなのでしょう。
注意 歌順に乱れがあります。西本願寺本では集歌一〇九六の歌は集歌一〇九七の後に置きます。
集歌一〇九六
原文 昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香具山
訓読 いにしはしことは知らぬを我(われ)見(み)にも久しくなりぬ天し香具山
私訳 昔の人々の物語(=出来事)は知らないのですが、私が眺めることも、久しくなりました。天の香具山よ。
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October 29, 2020, 4:10 pm
集歌一〇九八
原文 木道尓社 妹山在云櫛上 二上山母 妹許曽有来
訓読 紀道(きぢ)にこそ妹山(いもやま)ありいふ櫛(くし)上(かみ)し二上山も妹こそありけれ
私訳 紀国への道には妹山があると云うが、丸い櫛の形をした二上山も雄岳と雌岳の二山があり、同じようにここにも妹山があります。
詠岳
標訓 岳を詠める
集歌一〇九九
原文 片岡之 此向峯 椎蒔者 今年夏之 陰尓将比疑
訓読 片岡(かたおか)しこの向(むこ)つ峯(を)に椎(しひ)蒔(ま)かば今年し夏し蔭(かげ)に比疑(なそ)へむ
私訳 片側が切り立った丘の、この向こうの峰に椎を今、蒔いたならば、きっと若芽が育ち、それを今年の夏の面影(=思い出)としましょう。
注意 原文の「陰尓将比疑」を、標準解釈では「陰尓将化疑」と校訂して「陰(かげ)にならむか」と訓じます。歌を比喩を見ますと「椎蒔」は乙女への恋の芽生えとなりますが、標準解釈では表記そのままに植林の歌とします。
詠河
標訓 河を詠める
集歌一一〇〇
原文 巻向之 病足之川由 往水之 絶事無 又反将見
訓読 巻向し痛足し川ゆ往く水し絶ゆること無くまたかへり見む
私訳 巻向の痛足川を流れ往く水が絶えることがないように、なんどもなんども、その痛足川を振り返り眺めましょう。
集歌一一〇一
原文 黒玉之 夜去来者 巻向之 川音高之母 荒足鴨疾
訓読 ぬばたまし夜さり来れば巻向し川音(かはと)高しも嵐かも疾き
私訳 星明かりも隠す漆黒の闇夜がやって来るからか、巻向の川音が高いようだ。嵐かのように風足が疾い。
左注 右二首、柿本朝臣人麿之謌集出
注訓 右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
集歌一一〇二
原文 大王之 御笠山之 帶尓為流 細谷川之 音乃清也
訓読 大王(おほきみ)し三笠し山し帯(おび)にせる細谷川(ほそたにかわ)し音の清(さや)けさ
私訳 大王がお使いになる御笠のような、その三笠山を取り巻く帯のような細谷川のせせらぎの音のさやけさよ。
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October 29, 2020, 4:48 pm
集歌一一〇三
原文 今敷者 見目屋跡念之 三芳野之 大川余杼乎 今日見鶴鴨
訓読 今しくは見(み)めやと念(も)ひしみ吉野し大川(おほかは)淀(よど)を今日(けふ)見つるかも
私訳 今はもう見ることが出来ないと思っていた美しい吉野の吉野川の、その大きな川淀(大淀町北六田付近)を今日眺めました。
集歌一一〇四
原文 馬並而 三芳野河乎 欲見 打越来而曽 瀧尓遊鶴
訓読 馬並(な)めにみ吉野川を見まく欲(ほ)りうち越え来てそ瀧(たぎ)に遊びつる
私訳 馬を連ね立てて美しい吉野川を眺めたいと思い、山を越えて来て吉野の急流に風流を楽しんだ。
集歌一一〇五
原文 音聞 目者末見 吉野川 六田之与杼乎 今日見鶴鴨
訓読 音(おと)し聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田(むた)し淀を今日(けふ)見つるかも
私訳 噂には聞いても目では未だに見たことのない吉野川の六田の淀(大淀町北六田付近)を、今日眺めました。
集歌一一〇六
原文 河豆鳴 清川原乎 今日見而者 何時可越来而 見乍偲食
訓読 かはづ鳴く清(きよ)き川原を今日(けふ)見(み)にはいつか越え来て見つつ偲(しの)はむ
私訳 カジカ蛙の鳴く清らかな川原を今日眺めたからには、さて、今度はいつ山を越えて来てこの景色を眺めながら愛でましょうか。
集歌一一〇七
原文 泊瀬川 白木綿花尓 堕多藝都 瀬清跡 見尓来之吾乎
訓読 泊瀬川(はつせかは)白木綿(しらゆふ)花に落ち激(たぎ)つ瀬し清(さや)けしと見に来(こ)し吾を
私訳 泊瀬川に白い木綿の花が落ちたようなしぶきをあげる激流を「清らかだ」と云うので、眺めにやって来た私です。
注意 木綿は古語では「ゆふ」と訓じ、楮(こうぞ)や麻の晒して白くなった繊維を示し、そこから神事で使う玉串や大麻の麻苧を木綿(ゆう)と呼びます。白木綿花はその白い繊維で作った造花ではないかとします。
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October 31, 2020, 4:10 pm
資料編 墨子 目次篇
目次;HP「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」に示す区分及び篇名に従います。
巻一 親士、修身、所染、法儀、七患、辭過、三辯
巻二 尚賢上、尚賢中、尚賢下
巻三 尚同上、尚同中、尚同下
巻四 兼愛上、兼愛中、兼愛下
巻五 非攻上、非攻中、非攻下
巻六 節用上、節用中、節用下(欠失)、節葬上(欠失)、節葬中(欠失)、節葬下
巻七 天志上、天志中、天志下
巻八 明鬼上(欠失)、明鬼中(欠失)、明鬼下、非楽上、非楽中(欠失)、非楽下(欠失)
巻九 非命上、非命中、非命下、非儒上(欠失)、非儒下
巻十 経上、経下、経説上、経説下
巻十一 大取、小取、耕柱
巻十二 貴義、公孟
巻十三 魯問、公輸
巻十四 備城門、備高臨、備梯、備水、備突、備穴、備蛾傅
巻十五 迎敵祠、旗幟、號令、雑守
弊ブログは万葉集を眺める上で日本古典作品と『墨子』との関係に関心を持ち、その関係性について検索を行うために墨子のテキスト整備を行っています。このため、弊ブログに収容する資料編の扱いで墨子のテキストとその漢文訓じを紹介していますが、ここでのものが墨子の漢文読解を目的にするものではないことをご了解ください。正統な漢文訓じではなく、墨子の概要理解とそこからの日本古典に対する引用検索を実施する時のキーワードになると思われる言葉や文節の整備と抽出が目的です。
また、ややこしい説明ですが、弊ブログで紹介する墨子の原文となるテキストは句読点を持ち、各篇には小段落の区分があります。研究として原文読解を目的とする場合は、その原文の姿は、おおむね、各篇での句読点や小段落の区分などを取り除き、古代の表記スタイルに準じる形で一行十七文字の連続表記にすべきとなります。もし、読解のテキストが句読点や小段落の区分などを持つのなら、既にそこには読解者自身の原文読解の解釈が示されていることになります。つまり、弊ブログの墨子のテキストについても慎重な扱いをお願いします。
弊ブログでの墨子のテキスト整備では、その漢字入力の労を省くためにHP「諸氏百家 中国哲学書電子化計画(https//ctext.org/mozi/zh)」に載る『墨子』から墨子の本文となる部分をすべてそのままにコピーし原資料データとしています。なお、紹介した「中国哲学書電子化計画(以下、「電子化計画」)」に収容する『墨子』は、その漢文書に句読点、かぎ括弧「」、二重かぎ括弧『』、感嘆符!や疑問符?などを持つなど、原典を校訂した上で現代中国語により解釈し、それを繁字体表記としています。
弊ブログでは原文となるテキストを求めるために原資料データから、かぎ括弧「」、二重かぎ括弧『』、感嘆符!や疑問符?などを取り除き日本語漢文のような句読点だけのものに直しています。この作業により「」や『』で示していた本文中の発言を示す範囲や説論を示す範囲が変わった可能性があります。さらに中国繁体字を個人が持つCPに収容するフオント制限から日本漢字体に変換する作業を行っています。この日本漢字体に直す作業過程で採用した日本漢字の多くは中国繁体字からは略体字や異体字と称されるものですが、変換した日本漢字体の漢字が原典での漢字、中国繁体字の漢字と同じ意味を持つかは保証されません。なお、漢字の解釈については、原文がおおむね秦・前漢時代ごろの姿を留めているために、お手数ですが中国のインターネット漢字辞典となるHP「漢典(https://www.zdic.net/)」などから『康煕字典』と『説文解字注』などを参照してください。弊ブログでは漢字の扱いに疑義が生じた場合は、HP「漢典」に示す解釈を優先的に採用しています。
補足として、『漢書・芸文志』に『墨子』は全七十一篇があったと記述しますが、伝存は五十三篇のみで十八篇が失われています。その失われた十八篇の内、八篇についてはその篇名は目次に示す〇〇(欠失)と紹介するように欠失篇名は推定されていますが、残り十篇の篇名やその内容を推定することは困難とされています。近世では清朝になって整備された畢沅の『墨子』などを旧本テキストとして孫詒譲の『墨子閒詁』などの解釈・校訂本が創られており、日本の墨子の解釈本はおおむねこの『墨子閒詁』を底本としています。なお、現代の中国の研究成果を示す「電子化計画」の墨子は近世の校訂の結果のものを、再度、畢沅の『墨子』の時代に戻したものとなっており、孫詒譲の『墨子閒詁』とではテキストが異なる点が見られます。そのため、多くの『墨子閒詁』を底本とする日本語解釈本などをお手に取られる場合、そのテキストの相違やそこから生じた解釈の相違も御理解ください。
現在のところ、入手が容易な現存全篇を対象とする日本語による解説本は山田琢氏の「墨子上下(新釈漢文大系 明治書院)」があります。弊ブログの訓じでは多くをこの山田琢氏のものを参照させていただいています。ただし、弊ブログでは「電子化計画」の墨子テキストを尊重していますから、『墨子閒詁』を底本としさらに校訂を行っている山田琢氏のものを全面に採用したものではありません。訓じに差異があります。加えて、弊ブログの目的は古代日本での墨子の影響の確認のためのデーターベース整理です。そのために訓じ文の読解を容易にする漢語などの語釈を行っていません。お手数ですが辞典や山田琢氏の「墨子上下(新釈漢文大系 明治書院)」などでご確認ください。
墨子テキストについて、中国側での近世と現代のテキストの相違を反映して、孫詒譲の『墨子閒詁』を底本とする山田琢氏の墨子と「電子化計画」の墨子とでは扱うテキストに相違する箇所があります。また、山田琢氏は『墨子閒詁』などに習い、時に山田琢氏が行った解釈から文を整えるために底本に対し校訂を行っています。そのため、山田琢氏の墨子テキストは『墨子閒詁』とも違うものとなっています。他方、弊ブログは「電子化計画」のテキストを尊重する立場ですので、そこに原文テキストの相違とそれに対する日本語への訓じの相違があります。さらに、弊ブログが独自に日本語への訓じを行った結果、そのテキストの解釈を示す句読点の位置が「電子化計画」のものと相違する箇所が生まれています。
また、以下に弊ブログが参照とした書籍を示していますが、紹介する和田武司氏や高田淳氏の墨子は山田琢氏と同様に『墨子閒詁』を底本としますが、その紹介する書籍では両氏がそれぞれに要点と判断した篇に対し、さらにその篇の中でも重要と判断した部分についてだけに訓じと解釈を提供しています。つまり、紹介する両氏の書籍は現存する五十三篇全部の訓じを示していません。
墨子 上・下 山田琢 新釈漢文大系 明治書院
墨子 和田武司 中国の思想 徳間書店
墨子 高田淳 中国古典新書 明徳出版社
最初に紹介したように弊ブログで墨子を扱う目的は日本古典作品と墨子との関係性を確認するためであり、その基礎資料として対比対象の墨子のテキストを整備し、そのテキストの定義として幣ブログ 資料庫に収容するためです。
ご存知のように墨子 巻十一の経上、経下、経説上、経説下は上古の科学書や工学書の性格を持ちますから標準的な日本文学で扱う古典漢文の表記スタイルとは違い、欧米流の国際的な技術仕様書に載る言葉や概念の定義に相当するものです。それで国際的な技術仕様書などの文章構成や文体に馴染みの無い人たちにとっては、馴染みが無い分、難解・難読と評価します。
他の篇も墨学の書が古代の姿をそのままに現代に伝えているためにその用字などが中国語の整備が成った秦朝から前漢時代のものです。そのため、儒学や仏学のように近世中国語が成立した宋・元以降の用字などを使う姿とは相違がありますから難解・難読と評価されます。
古典研究者は自身の読解を示すために独自に原文や底本に対し文の削除・挿入、文字の変更、文章の改変などの校訂を行います。それがその時代の大多数の人々に支持されますと、その時代での基本テキストとなり後年に伝わります。一方、墨子は時代に取り残された学説として秦朝から前漢時代の姿をそのままに伝えます。そのために墨子は古典漢文としては特異な表記スタイルや用語を持つという背景があるために、単純に「電子化計画」の墨子のテキストを完全コピーの形で引用するだけでは用が足りず、日本語解釈を示すために整備した底本となるテキストとその訓じを確認し、改めて墨子の原文との相違を確認する作業を行っています。作業において、弊ブログでは句読点の位置を除き、文章表記と用字は中国大陸と台湾でともに公表する墨子のテキストに完全に従っています。そこが従来の日本で紹介されているものとの大きな相違です。なお、句読点の位置が違う分、中国大陸や台湾との解釈が違う箇所があることは明白です。
加えまして、中国大陸などの遺跡・遺物などからの研究で墨子の文章は秦朝から前漢時代の姿から大きくは変わっておらず、儒学や仏学のように時代に合わせた解釈や校訂が為されていないと指摘します。そのために使われている漢字文字の意味は、簡単な漢字であっても『康煕字典』に載る古語解説や『説文解字註』などに改めての確認が必要になります。その分、近代中国語の基盤が成立した宋・元代以降の漢文への翻訳が揃う五経正義や孟子や荀子などから漢籍を研究する専門家にとって墨子読解に不利があります。
最後に本ブログの重大な欠点として、紹介するものは正統な教育を受けていない者が行い、それへの正しい評価手続きを経ていないものです。世に云うトンデモ論の範疇のものということを御承知ください。そのため、一目瞭然ですが笑読程度のものとして扱うことを推薦します。あくまで、弊ブログで行う万葉集を眺める上で必要な古代日本を理解する為に、その古代日本への墨子の影響の有無を眺める作業への基礎資料整備です。
弊ブログの目的外のおまけとして、
墨子を眺めた感想として、一般には墨学の「非攻上・中・下篇」の篇名から墨学は戦争を否定すると解説する場合がありますが、学説からすると墨学は戦争と云う行為自体は否定していません。戦争の目的が一方的な侵略戦争(「攻伐」や「寇」)ならば、その戦争行為を正当化する名目が存在しないから反対するのであって、戦争行為を正当化する名目(「誅」や「罰」の行使など)が存在する場合は戦争行為を否定しません。また、聖王が民衆教化のための後進地域の併呑行為は「攻伐」や「寇」には含まれません。およそ、墨学が戦争行為を正当化するものとしては次のようなものがあります。
① 現在の社会生活が安定してそれを防衛することで住民の生活に利益があると判断する場合、
② 為政者の行為により現在の社会生活が不安定で原因となる為政者を取り除くことで住民の生活に利益があると判断する場合、
人に乱暴者がいるように乱暴な国も存在するから、このような乱暴な国から自己を守ることを正義(正当防衛)としますし、乱暴者に支配された民を救済するのも正義(誅罰)とします。墨学は出撃する戦争について古代の善なる王の湯や武と暴なる王の桀や紂とを比較対象の例に示し、ある種の警察機能としての軍の存在とその警察機能の行使となる戦争もまた誅罰の行為として正義とします。
また、墨子が活躍した時代、鉄製農機具の普及と農業土木の技術発展から開発可能となった土地に対し人が不足していること、また、地域により開発技術の人材に濃い濃淡があることを背景に、統治能力に劣る地域を吸収し統治能力に長けた人材を配置して人民を豊かにする統治の統合政策とその過程の行為は古代の聖王の例を挙げて侵略戦争(攻伐や寇)とは別のものとします。つまり、墨学の非攻論にあっても古代の聖王とされる禹、湯、文、武たちの創業と併呑政策およびそれに類推行為は明確に侵略戦争からは区分します。
このような理論組立の為に、墨学の非攻論の難しいところは警察機能とその行使となる戦争を認め、また、民生向上のための技術や統治機能の先進地域による後進地域の吸収も認めるところにあります。その時、実際に起きている戦争が警察機能の行使や行政権の行為なのか、それとも侵略戦争なのかの判断が難しいものがあります。例として古代にあっていち早く厳格な刑法の施行と身分制度を廃止した秦が中華を統一し旧制度を維持する強国間で生じていた戦争をすべて取り除くなら、これを実現する戦争は警察機能の行使となり正義とも考えられます。それならば墨学の一派が秦に有り、秦墨として世に知られるのも道理です。
次に墨学に人々を平等に扱う精神を示すものに「兼愛」が有ります。中華の伝統である父系血族をコアに関係性を周囲に広げて行くものと対照的に血族・同族・同郷・階層などの枠を取り払い、人々を対等・平等に扱うことを説くことは非常に画期的な説です。ただし、墨学は同時に「尚同」と「尚賢」の精神と実践を説きます。墨学は「兼愛」と同時に「尚同」と「尚賢」をセットにしていることを十分に理解する必要があります。つまみ食いで兼愛だけを扱うと墨学を誤ります。
墨学は兼愛の思想で人々を対等・平等に扱う精神を示しますが、同時に尚同の思想で兼愛の思想により平等に扱われる人々は、同じ集団の構成員として同じ価値感覚や道徳を共有しなければならず、同じ価値感覚や道徳を共有できない人は集団構成員からすれば暴であり、乱だから誅罰するとします。理論として同じ価値感覚や道徳を共有できない人は兼愛の枠外の人です。さらに尚賢の思想では同じ価値感覚や道徳を共有する尚同した人たちは、同じ集団・階層の中の「賢」なる人に従えとします。墨学は階層社会を前提としており、邑人は邑の賢に従い、邑の賢は郡県の賢に従い、郡県の賢は三公の賢に従い、三公の賢は天子に従うとします。儒学と墨学は似た社会構造を示しますが、墨学の賢は世襲や血の理論では無く、実務遂行能力などにより上が賢なる人を選抜し、結果が劣ればその地位から排除すると云う排除の理論も合わせ持ちます。なお、古代の墨学の思想の限界は、この階層社会の中にあって「賢」の選抜は上からの行為であって、下からでも同じ構成員の中からの互選による選抜でもありません。つまり、最初から最上位の天子が存在することを前提とした理論構成となっています。
戦争遂行とその勝利を前提としますと墨学の主張は実にもっともです。軍組織として、構成員全員が同じ意識と価値感覚を持ち、平等の原理で能力に基づき地位と権力行使範囲を決め、上意下達の指揮命令系統とそれを実行するための規則・規定を持つのは当然です。墨学を戦闘集団の理論と実践書として理解すれば、実に納得の書籍です。戦争遂行とその勝利を目的としたとき、孫氏の兵法は戦術論であり技術論ですが、墨学は戦争遂行を目的としたときの社会のありようまで踏み込んだ経世論と考えるべきでしょう。戦争が戦場で行われ、指揮官は戦場に立つべきとの認識と主張であれば、墨子とその弟子が経世論からすれば平時での戦場となる民衆・民生の最前線で実践の指揮を行う行為から、彼らを職人・工人集団と考えるのは誤解ではないでしょうか。当然、墨学の徒は評判されるように戦時では戦争を指揮し、戦闘の前線に有ります。
また墨学の他の有名な精神論に「節葬篇」や「非楽篇」が有りますが、これらの精神は葬儀を行う時や歌舞音曲を楽しむ時の「程度」と云うものを主張していて、儒学者が礼の行いとして求めるものと比べれば、それは無いも同然としています。例として、春秋時代にあって孔子が好んだ詩経などの「楽奏」は鄭衛の楽の言葉が示すように約二十種類の楽器を用いる数十人編成の楽団に性的な女性の舞いを伴うものであり、それも食事付きで夜通し演奏します。対する墨学の「非楽」とはアコースティック演奏のような一から二人程度の奏者、または自分で演奏して音楽を楽しむもので、その程度の音楽の楽しみなら儒学者が示す「楽」に比べれば無いも同然と主張します。この程度の楽しみなら翌日の勤務や労働に悪影響は生じないと説きます。これが墨学の示す非楽篇の真意ですし、税金を取られる側の理論です。節葬の説も同様です。ただ、古代では税金を取られる側を擁護する理論はぼろくそに叩かれます。墨学を叩いた儒学の指導により前漢末期頃までには「楽」で使用する楽器は約三十種類が必要になります。儒学の理論としては庶民から税を徴収し、その税で指導者階級が贅を尽くした礼を行うことで、それを用意・施行する職人や商人が潤い、お金が世の中を回り経済的に有益と説きます。政経政策論からしますと、ある種の古代における取られる側からの墨学の最適課税論と取る側からの儒学の有効需要論との戦いです。
さらに儒学との対比から墨学では「天志篇」と「明鬼篇」、また「非命篇」が有名です。以下は弊ブログの特有の判断ですが、天志篇と明鬼篇については尚同・尚賢の理論と墨学の組織論を眺めると上意下達の組織の最高位に座る天子を制御する装置や仕組みは有りません。理論としては「天」なるものや「鬼」なるものが天子を制御することになるのですが、それを天志篇と明鬼篇で述べていると理解しています。ただ、信心がベースですから、天子が「天」なるものや「鬼」なるものを信じなければ話になりません。ただ、その存在を理詰めされると辛いのです。
墨子の時代や墨学が集大成した時点では、この天子を制御する装置について理論的で同時に天子やそれを補佐する三公などの支配者層に受け入れられるものが見出されなかったのでしょう。それで、古代人の「不思議」への恐れや畏怖する精神状態;信仰心に期待して、天変地異や疫病疾病などに、「天」なるもの、「天」よりもより民衆に近い「鬼」の意思が示されるとして、天子を諭すのがやっとだったのでしょう。それでも唯一、天子を制御する具体的な装置として、後年からの歴史の評価の存在を示し、歴史に暴王ではなく聖王としての名を残せと説きます。名誉欲への期待が天子の暴や悪に対する唯一具体的な制御装置です。墨学もこの信仰心や名誉欲からの悪政制御の限界を理解していて、聖王となるかどうかは、結局、天子の持って生まれた「性」に帰結すると放り投げます。
他方、古代日本では日本書紀にも載せるように「天」や「鬼」の意思を伝える巫女(天皇)と政務をとる大王(太政大臣)との二元体制を取ります。古代日本に墨学が伝わったとしますと、それは墨学の「尚賢篇」、「天志篇」、「明鬼篇」などを踏まえた統治における総合的な解決方法かもしれません。
さらに墨学が説く「非命篇」は個々人に対する生まれ持っての運命論とは相違します。墨学が説く「非命篇」は為政者の自然災害などに対する事前準備や対策を説くもので、指導者は無為無策の言い訳として「天なる意思=天命」を持ち出すなというものです。個々人の幸不幸の由来を扱うものではありません。墨子の非命篇は、技術者や実務者の論理・倫理からすると、一定のサイクルで発生すると推定される天災飢饉を前提として為政者が統治を行わないのならば人民は救われないと考えるのは当然です。浪費はするがそれ以外では無為無策の為政者に天災飢饉は人智の及ばない天命の表れであり、時の運命だとして逃げられたのでは堪りません。それで墨学は、為政者は天災飢饉を想定して民を指導して耕作殖産に励み平時にあって食料や衣料の備蓄、また、住居の整備を十分にしなさいと説きます。天災飢饉の記録を確実にすれば一定のサイクルでの来襲とその規模の予測は立ちますから、これはこれで実にまともな話です。このように墨学は為政者の逃げ道となる運命論を排除するために天災飢饉に備えて勤労と備蓄を説きますが、対する儒学では余剰生産は消費すべしでありその根拠を礼に置きます。天災飢饉が発生した時、十分な備蓄の理論を持たない儒学がそれは天命の一つの側面としての人が持って生まれた運命とするのであれば、その理論は為政者には大変に有益な学問で保護すべき学問です。
付け加えて、墨子の第十四、第十五の章では戦闘実務論が記載されていますが、そこでの特徴的思想として、戦争・戦闘を行うことを前提として、女子を戦力として扱い男女平等に報償と懲罰規定を示します。また、上官の命令の無い降伏や停戦は認めず、一端、戦闘状態に入った後、何らかの命令外行動を取った場合は原則、死刑と規定します。身分による免責を規定しませんから墨子集団を率いるリーダー 巨子であっても例外とはなりません。これを厳密に適用しますと、巨子も国王等の上位責任者の命令なしでの降伏は死刑です。このために楚王との戦いに敗戦・開城した巨子・孟勝は、城主が既に国外逃亡していてその許諾判断を得ることは実際上不能ですが、上位者となる城主の陽城君の許可を得ていない降伏を理由に自分に対し死刑を実行せざるを得なくなります。このような姿を頑固な墨守の態度と評論しますが、戦闘実務論とその実践からすると当然と云えば当然です。そこが、特権や免責慣習を持つ支配者階層と戦闘師卒階層とを明確に区分する儒学などとの大きな相違があります。
色々と弊ブログでの墨子を眺めた感想を紹介してきましたが、最後に、墨子の第一部となる親士、修身、所染、法儀、七患、辭過、三辯の七篇には墨学の全体概要が示され、第二部以降の各篇には第一部七篇で紹介した概要の詳細が相手のレベルに合わせて上篇、中篇、下篇などに分けて示されています。また、第一部七篇のそれぞれの篇は第二部以降の各篇で示すそれぞれのテーマでの論説の中から強い関係性を持つ部分をブリッジして篇として編集し、全体概要を判り易く示す側面も合わせ持ちます。そのため、墨子研究の専門家の意見とは異なりますが、最初に第一部七篇を十分に受け止め、眺めていただくことを推薦します。そのためにも残存五十一篇すべてを網羅する山田琢氏の「墨子上下(新釈漢文大系 明治書院)」の読解をお勧めします。
最後の最後に、戦国時代から秦時代では墨子・荀子・韓非子の順があり、前秦時代は学派としては墨学が最大派閥です。また、秦には秦墨がいたと強く推定されています。弊ブログの判断では墨学と韓非子とは親和性が高いと判断しますが、ここをご指摘・批判いただければ幸いです。
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November 1, 2020, 6:14 am
資料編 墨子 巻一 親士
PDFのリンク先;
https://drive.google.com/file/d/13U1_4e2zMKR3_nLpd4S5EROcGHUbu-_o/view?usp=sharing
《親士》
入國而不存其士、則亡國矣。見賢而不急、則緩其君矣。非賢無急、非士無與慮國、緩賢忘士而能以其國存者、未曾有也。
昔者文公出走而正天下、桓公去國而霸諸侯、越王句踐遇呉王之醜而尚攝中國之賢君。三子之能達名成功於天下也。皆於其國抑而大醜也。太上無敗、其次敗而有以成、此之謂用民。
吾聞之曰、非無安居也、我無安心也。非無足財也、我無足心也。是故君子自難而易彼、衆人自易而難彼、君子進不敗其志、内究其情、雖雑庸民、終無怨心、彼有自信者也。是故為其所難者、必得其所欲焉、未聞為其所欲而免其所悪者也。是故偪臣傷君、諂下傷上。君必有弗弗之臣、上必有詻詻之下。分議者延延而支苟者詻詻、焉可以長生保國。臣下重其爵位而不言、近臣則喑、遠臣則唫、怨結於民心、諂諛在側、善議障塞、則國危矣。桀紂不以其無天下之士邪。殺其身而喪天下。故曰、歸國寶、不若献賢而進士。
今有五錐、此其銛、銛者必先挫。有五刀、此其錯、錯者必先靡、是以甘井近竭、招木近伐、靈龜近灼、神蛇近暴。是故比干之殪、其抗也、孟賁之殺、其勇也、西施之沈、其美也、呉起之裂、其事也。故彼人者、寡不死其所長、故曰、太盛難守也。
故雖有賢君、不愛無功之臣、雖有慈父、不愛無益之子。是故不勝其任而處其位、非此位之人也、不勝其爵而處其禄、非此禄之主也。良弓難張、然可以及高入深、良馬難乗、然可以任重致遠、良才難令、然可以致君見尊。是故江河不悪小谷之満己也、故能大。聖人者、事無辭也、物無違也、故能為天下器。
是故江河之水、非一源之水也。千鎰之裘、非一狐之白也。夫悪有同方取不取同而已者乎。蓋非兼王之道也。是故天地不昭昭、大水不潦潦、大火不燎燎、王德不堯堯者、乃千人之長也。其直如矢、其平如砥、不足以覆萬物、是故谿陝者速涸、逝淺者速竭、墝埆者其地不育。王者淳澤不出宮中、則不能流國矣。
字典を使用するときに注意すべき文字
錯、金涂也、涂俗作塗。 金メッキを意味します
雖、助語也。每有、雖也。 古代と近代で用法が違う場合があります。
唫、閉口也。 口を閉ざすこと。
《親士》
國に入りて而(すなは)ち其の士の在せざれば、則ち國を亡(うしな)ふ。賢を見て而(しかる)に急にせざれば、則ち其の君を緩(かん)にす。賢に非ざれば急にすること無く、士に非らざれば與(とも)に國を慮(おもんばか)ること無し、賢を緩にし士を忘れ而(しかる)に能く國を以って存せしは、未だ曾って有らざるなり。
昔の文公は出で走るも而(しかる)に天下を正(ただ)し、桓公は國を去るも而(しかる)に諸侯に霸(は)たり、越王句踐は呉王の醜(はずかしめ)に遇(あ)ふも而(しかる)に中國の賢君を攝(もと)め尚(たつ)とぶ。三子は能く天下に名を達し功を成すなり。皆、其の國に於いて抑(おさ)へられて而して大いに醜(はずか)しめられる。太上に敗は無く、其の次は敗れるも而(しかる)に以って成すこと有り。此、之を民を用ふと謂う。
吾の之を聞いて曰く、安居(あんきょ)無きに非ずなり、我(おのれ)に安心は無きなり。足財(そくざい)無きに非ずなり、我(おのれ)に足心(そくしん)は無きなり。是の故に君子は自ら難(かた)くして而して彼(か)を易(やす)くし、衆人は自ら易(やす)くして而して彼(か)を難(かた)くす。君子は進みて其の志を敗(やぶ)らず、内に其の情を究め、庸民(ようみん)に雑(まじ)はると雖(いへど)も、終(つい)に怨心(えんしん)は無し、彼(か)の自ら信ずるもの有ればなり。是の故に其の難(かた)きする所を為す者は、必ず其の欲する所を得る、未だ其の欲する所を為して而(しかる)に其の悪(にく)む所を免るる者は聞かざるなり。是の故に偪臣(ねいしん)は君を傷(そこな)ひ、諂下(えんか)は上を傷(やぶ)る。君に必ず弗弗(ふつふつ)の臣有り、上に必ず詻詻(がくがく)の下は有り。分議する者は延延(えんえん)にして而して支苟(しいや)する者は詻詻(がくがく)たり、焉(すなは)ち以って生を長じ國を保つ可し。臣下は其の爵位を重んじ而して言はず、近臣は則ち喑(いん)し、遠臣は則ち唫(きん)すれば、怨(うらみ)は民心に結ぶ、諂諛(てんゆ)は側(かたはら)に在り、善議(ぜんぎ)障塞(やくそく)すれば、則ち國は危し。桀紂は其の天下に士無きを以ってならずや。其の身を殺し而(しかる)に天下を喪(うしな)う。故に曰く、國に寶(たから)を歸(おく)るは、賢を獻じて而して士を進むるに若(し)かず。
今、五錐は有り、此れ其は銛(せん)なり、銛(せん)なるものは必ず先より挫(ざ)す。五刀は有り、此れ其は錯(さく)なり、錯(さく)なるものは必ず先(はや)く靡(ま)す。是を以って甘井(かんせい)は近(ま)づ竭(つ)き、招木(しょうぼく)は近(ま)づ伐(き)られ、靈龜(れいき)は近(ま)づ灼(や)かれ、神蛇(しんじゃ)は近(ま)づ暴(さら)さる。是の故に比干(ひかん)の殪(たお)されしは、其の抗(こう)すればなり。孟賁(もうほん)の殺されしは、其の勇あればなり。西施(せいし)の沈められしは、其の美なればなり。呉起(ごき)の裂(さ)かれしは、其の事あればなり。故に彼(か)の人は、其の長する所に死せざること寡(すくな)し、故に曰く、太盛(たいせい)は守り難(かた)しと。
故に賢君と有る雖(なら)ば、無功の臣を愛さず、慈父と有る雖(なら)ば、無益の子を愛さず。是の故に其の任に勝(た)へずも而(しかる)に其の位に處(お)る、此の位の人に非ざるなり。其の爵(しゃく)に勝(た)へずも而(しかる)に其の祿に處(お)る、此の祿の主に非ざりなり。良弓は張り難(かた)く、然れども以って高く及(とど)き深く入る可し、良馬は乘り難(かた)く、然れども以って重きを任(にな)い遠きに致す可し。良才は令し難(かた)し、然れども以って君を致し尊きを見す可し。是の故に江河(こうが)は小谷の己を満すを悪(にく)まず、故に能く大なり。聖人は、事を辭すること無く、物を違(たが)ふこと無し。故に能く天下の器と為る。
是の故に江河の水は、一源の水に非ず。千鎰(せんいつ)の裘(きゅう)は、一狐の白(びゃく)に非ず。夫れ悪(いづく)むぞ同方を取るも同きを取らずして而して已(すで)なるは有らむか。蓋(けだ)し兼王の道に非ずなり。是の故に天地は昭昭(せうせう)たらず、大水は潦潦(りょうりょう)たらず、大火は燎燎(りょうりょう)たらず、王德は堯堯(げうげう)たらずは、乃ち千人の長なり。其の直(なお)きこと矢の如く、其の平らかなることは砥(と)の如く、以って萬物を覆ふに足らず。是の故に谿(たに)の陝(せま)きものは速(すみやか)に涸れ、逝(なが)れ淺きものは速(すみやか)に竭(つ)き、墝埆(こうかく)なるものは其の地に育たず。王者の淳澤(じゅんたく)、宮中を出でざれば、則ち國に流るること能(あた)はず。
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November 2, 2020, 12:49 am
集歌一一〇八
原文 泊瀬川 流水尾之 湍乎早 井提越浪之 音之清久
訓読 泊瀬川(はつせかは)流るる水脈(みを)し瀬を早みゐで越す浪し音し清(さや)けく
私訳 泊瀬川の流れる川筋の瀬が急流なので、流れを堰き止める自然に出来た井堤を越す水浪の音が清らかです。
集歌一一〇九
原文 佐檜乃熊 檜隅川之 瀬乎早 君之手取者 将縁言毳
訓読 さ檜(ひ)の隈(くま)檜隈(ひのくま)川し瀬を早み君し手取らば言(こと)寄せむかも
私訳 檜の隈を流れる檜隈川の瀬が早いので、貴方の手にすがったら、貴方は私に愛の誓いをよせるでしょうか。
注意 檜隈川は奈良県高市郡明日香村檜前の付近を流れる川です。
集歌一一一〇
原文 湯種蒔 荒木之小田矣 求跡 足結出所沾 此水之湍尓
訓読 湯種(ゆたね)蒔く新墾(あらき)し小田(おた)を求めむと足結(あゆ)ひ出(い)でそ濡(ぬ)るこの川し瀬に
私訳 湯に漬け選別した稲種を蒔く、その新しく開墾する小さな田を探そうと、足結いをして家を出て来たのに、その足結いが濡れてしまった。この川の早い瀬に。
注意 原文の「此水之湍尓」の「水」は標準解釈では「カハ」と訓じます。一方、有名な柿本人麻呂の自傷歌群の中の集歌二二四の歌での一節「石水」でも「イシカハ」と訓じ「石川」のこととします。
集歌一一一一
原文 古毛 如此聞乍哉 偲兼 此古河之 清瀬之音矣
訓読 古(いにしへ)もかく聞きつつか偲(しの)ひけむこの布留川し清瀬し音(おと)を
私訳 昔もこのように瀬音を聞きながら愛でてきたのでしょう。この布留川の清らかな瀬の音を。
注意 布留川は龍王山を源として、天理市の西方の平野部に流れ、西流して初瀬川と合流します。
集歌一一一二
原文 波祢蘰 今為妹乎 浦若三 去来率去河之 音之清左
訓読 はね蘰(かづら)今する妹をうら若(わか)みいざ率川(いざかは)し音し清(さや)けさ
私訳 娘女と成った証のつる草の髪飾りを、今、着ける、その愛しい貴女が初々しいと思い、いざいざ(=さあさあ)と貴女を誘う、その言葉のひびきのような率川の瀬音が清かなことです。
注意 率川は奈良公園内を流れる菩提川の上流部を指し、春日山(御蓋山)を源とします。
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November 3, 2020, 12:52 am
集歌一一一三
原文 此小川 白氣結 瀧至 八信井上尓 事上不為友
訓読 この小川霧(きり)ぞ結べる瀧(たぎ)ちゆく走井(はしゐ)し上(うへ)に事(こと)挙(あ)げせねども
私訳 この小川に人の気持ちの表れと云う霧がかかっている。しぶきをあげて流れいく走井のほとりで、神に恋の願いをまだ掛けてもいないのに。
注意 走井を地名と見るか、水を汲む小川の特定の場所と見るかで景色は変わります。ここでは水を汲む場所としています。
注意 霧や雲は霊魂の表れと解釈しますが、この歌の霧は、恋人の気持ちと解釈するようです。
集歌一一一四
原文 吾紐乎 妹手以而 結八川 又還見 万代左右荷
訓読 吾が紐を妹し手もちに結八川(ゆふやかは)また還(かへ)り見む万代(よろづよ)までに
私訳 私の衣の紐を愛しい貴女が手ずから結ぶ、その言葉のひびきのような結八川よ。また、やって来て眺めましょう。後々までも。
注意 結八川は未詳の川です。なお、葛城市の高田市側の低地帯に八川と云う地名と川が存在します。
集歌一一一五
原文 妹之紐 結八川内乎 古之 并人見等 此乎誰知
訓読 妹し紐(ひも)結八(ゆふや)河内(かふち)を古(いにしへ)しみな人見しとこを誰れ知る
私訳 愛しい貴女の衣の紐を結ぶ、その言葉のひびきのような結八川の河の流れを、昔の人は皆が眺めたと云う。さて、このことを、今、誰が知っているでしょうか。
注意 結八川は未詳の川です。なお、葛城市の高田市側の低地帯に八川と云う地名と川が存在します。
詠露
標訓 露を詠める
集歌一一一六
原文 烏玉之 吾黒髪尓 落名積 天之露霜 取者消乍
訓読 ぬばたまし吾が黒髪に降りなづむ天し露(つゆ)霜(しも)取れば消(け)につつ
私訳 漆黒の私の黒髪に降り積もる、その天空からの白い露霜を貴方の手が撫で取れば、見る間に露と濡れ消えていくでしょう。
注意 「落名積 天之露霜」の表現に難しいものがあります。髪に降る雪ではありません。なお、野暮ですので若白髪を抜く風情とは見ていません。
詠花
標訓 花を詠める
集歌一一一七
原文 嶋廻為等 礒尓見之花 風吹而 波者雖縁 不取不止
訓読 島廻(しまみ)すと磯に見し花風吹きに波は寄すとも取らずは止(や)まじ
私訳 島廻りをして磯に見た桜の花、その花に風が吹いくので磯に波が打ち寄せたとしても、枝を折り取らないではいられない。
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November 4, 2020, 12:53 am
詠葉
標訓 葉を詠める
集歌一一一八
原文 古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜尓 插頭折兼
訓読 古(いにしへ)にありけむ人も吾がごとか三輪の檜原(ひはら)に挿頭(かざし)折(を)りけむ
私訳 昔にいらしたと云われる伊邪那岐命も、私と同じでしょうか。三輪の檜原で鬘(かづら)を断ち切って、偲ぶ思いを断ち切ったのでしょうか。
注意 伊邪那岐命の黄泉国神話の黒鬘から「古尓 有險人」として見ています。
集歌一一一九
原文 往川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者
試訓 往(ゆ)く川し過ぎにし人し手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪し檜原は
試訳 流れいく川のように過去へと過ぎ去ってしまった人に手を合わせて冥福を祈ることをしないと、寂しそうに立っています。三輪の檜原の木々は。
左注 右二首、柿本朝臣人麿之謌集出
注訓 右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
注意 ここでは試訓として、仏教の外縛印で合掌をする風景を想像して解釈してみました。なお、人麻呂時代から明治初期までは三輪は大三輪寺を中心とする仏教寺院が立ち並ぶ仏教の聖地です。その仏教聖地に関係するためか、原文は三輪ではなく唯識論の「三和」ですし、集歌一一一八の歌では「弥和」の表記を使用します。
詠蘿
標訓 蘿を詠める
集歌一一二〇
原文 三芳野之 青根我峯之 蘿蓆 誰将織 經緯無二
訓読 み吉野し青根(あをね)が峯(たけ)し蘿蓆(こけむしろ)誰れか織りけむ経緯(たてきぬ)なみに
私訳 美しい吉野の青根ヶ峰の苔むしろは、誰が織ったのでしょうか。経糸も横糸もないのに。
詠草
標訓 草を詠める
集歌一一二一
原文 妹所等 我通路 細竹為酢寸 我通 靡細竹原
訓読 妹そらし我が通ひ路(ぢ)し細竹(しの)薄(すすき)我(われ)し通へば靡け細竹原(しのはら)
私訳 愛しい貴女の許へと私が通う道の篠竹や薄よ、私が通ったならば道になるように靡き開け。篠竹の原よ。
詠鳥
標訓 鳥を詠める
集歌一一二二
原文 山際尓 渡秋沙乃 往将居 其河瀬尓 浪立勿湯目
訓読 山し際(は)に渡る秋沙(あきさ)の行きて居(ゐ)むその川し瀬に浪立つなゆめ
私訳 山の峰の際を飛び渡るアキサカモが飛び往って羽を休めている、その川の瀬に波よ、立つな。決して。
注意 秋沙は「アキサ」と訓じ「アキサ鴨」を指し、現在の「カワアイサ」と呼ばれる鴨です。
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November 5, 2020, 12:55 am
集歌一一二三
原文 佐保河之 清河原尓 鳴智鳥 河津跡二 忘金都毛
訓読 佐保川(さほかは)し清き川原に鳴く千鳥(ちどり)蛙(かはづ)と二つ忘れかねつも
私訳 佐保川の清らかな川原に鳴く千鳥とカジカ蛙の声とを、私は二つとも忘れられないでしょう。
集歌一一二四
原文 佐保河尓 小驟千鳥 夜三更而 尓音聞者 宿不難尓
訓読 佐保川(さほかは)に小驟(さはけ)る千鳥さ夜(よ)更(ふ)けに汝(な)が声聞けば寝(い)ねかてなくに
私訳 佐保川で鳴き騒いでいる千鳥よ、芳しい夜が更けるにつけ、お前の鳴き声を聴けば眠れないことです。
思故郷
標訓 故郷(ふるさと)を思(も)ふ
集歌一一二五
原文 清湍尓 千鳥妻喚 山際尓 霞立良武 甘南備乃里
訓読 清き瀬に千鳥(ちどり)妻(つま)喚(よ)び山し際(は)に霞立つらむ甘南備(かむなび)の里
私訳 清らかな瀬に千鳥が妻を鳴き呼ぶでしょう、また、山の峰の際に霞が立っているでしょう。そのような明日香の甘南備の里よ。
集歌一一二六
原文 年月毛 末經尓 明日香河 湍瀬由渡之 石走無
訓読 年月もいまだ経(へ)なくに明日香川湍瀬(せせ)ゆ渡しし石(いし)走(はし)も無み
私訳 年月もいまださほど経っていないのに、明日香川の速い流れを飛び渡っていた飛び石も、もう無くなってしまった。
注意 飛鳥地方では浄御原宮から藤原京の時代に、人口増加と都市近代化により山林の木々の過伐採で周辺の山林が荒廃したことがプラントオパール解析から判明しています。朝廷は過伐採を禁止し、植林を推薦しましたが、その効果は無かったようです。そのような背景を持つ歌でしょうか。
詠井
標訓 井(ゐ)を詠める
集歌一一二七
原文 隕田寸津 走井水之 清有者度者吾者 去不勝可聞
訓読 落ち激(たぎ)つ走井(はしりゐ)水し清(さや)あれば度(たび)しは吾は去(い)きかてぬかも
私訳 岩肌を落ち流れる走井の水の流れが清らかなので、旅路にある私も立ち去り難いことです。
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November 6, 2020, 12:57 am
集歌一一二八
原文 安志妣成 榮之君之 穿之井之 石井之水者 雖飲不飽鴨
訓読 馬酔木(あしび)なす栄えし君し穿(ほ)りし井(ゐ)し石井(いはゐ)し水は飲めど飽(あ)かぬかも
私訳 馬酔木のように女盛りの貴女が手入れをした井戸の、その石井の水は飲んでも飽きることはありません。
注意 歌の井戸は、岩から染み出る水を竹樋で集めた水場と思われます。
詠和琴
標訓 和琴(やまとこと)を詠める
集歌一一二九
原文 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
訓読 琴取れば嘆き先立つけだしくも琴し下樋(したひ)に妻や匿(こも)れる
試訳 琴(=陰核)を奏でるとその響す音色に賞讃の想いがまず現れ、覆う和毛、さらにその先の、素晴らしい音色を響す琴(=陰核)から樋(=陰唇)を下へと辿って行くと、そこには妻(=膣)が隠れています
注意 漢方医学書『医心方』第二十八巻 房内からの解釈です。古典的医学書からの解釈のため、相当に歌意が違います。
芳野作
標訓 芳野(よしの)に作る
集歌一一三〇
原文 神左振 磐根己凝敷 三芳野之 水分山乎 見者悲毛
訓読 神さぶる磐根(いはね)己凝敷(こごしき)み吉野し水分山(みくまりやま)を見れば悲しも
私訳 神々しい磐根がごつごつと折り重ねっている吉野の水分山を眺めると、その神聖さにため息が出てしまう。
集歌一一三一
原文 皆人之 戀三吉野 今日見者 諾母戀来 山川清見
訓読 皆人(みなひと)し恋ふるみ吉野今日(けふ)見れば諾(う)べも恋ひけり山川清(きよ)み
私訳 人々が皆、愛しむ吉野を、今日、このように眺めると、愛しむはもっともなことで、私も恋い慕ってしまった。この山や川の清らかさに。
集歌一一三二
原文 夢乃和太 事西在来 寤毛 見而来物乎 念四念者
訓読 夢(いめ)の和太(わた)事(こと)にしありけり現(うつつ)にも見に来るものを念(おも)ひし念(おも)へば
私訳 夢に見た吉野の射目の和太(下市町新住付近)とは、この景色だったのだなあ。現実の事として眺めに来ることを願っていたことを思い返すと。
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November 7, 2020, 3:10 pm
資料編 墨子 巻一 修身
PDFのリンク先;
https://drive.google.com/file/d/1g7VKclUJROYU8CPUaduj7LSFWz0AhdbS/view?usp=sharing
《修身》
君子戦雖有陳、而勇為本焉。喪雖有禮、而哀為本焉。士雖有学、而行為本焉。是故置本不安者、無務豊末。近者不親、無務来遠。親戚不附、無務外交。事無終始、無務多業。挙物而闇、無務博聞。
是故先王之治天下也、必察邇来遠、君子察邇而邇脩者也。見不脩行、見毀、而反之身者也、此以怨省而行脩矣。譖慝之言、無入之耳、批扞之聲、無出之口、殺傷人之孩、無存之心、雖有詆訐之民、無所依矣。
故君子力事日彊、願欲日逾、設壮日盛。君子之道也、貧則見廉、富則見義、生則見愛、死則見哀。四行者不可虛假、反之身者也。蔵於心者、無以竭愛。動於身者、無以竭恭。出於口者、無以竭馴。暢之四支、接之肌膚、華髮隳顛、而猶弗舍者、其唯聖人乎。
志不彊者智不達、言不信者行不果。據財不能以分人者、不足與友。守道不篤、偏物不博、辯是非不察者、不足與游。本不固者末必幾、雄而不脩者、其後必惰、原濁者流不清、行不信者名必秏。名不徒生而誉不自長、功成名遂、名誉不可虛假、反之身者也。務言而緩行、雖辯必不聴。多力而伐功、雖労必不圖。慧者心辯而不繁説、多力而不伐功、此以名誉揚天下。言無務為多而務為智、無務為文而務為察。
故彼智無察、在身而情、反其路者也。善無主於心者不留、行莫辯於身者不立。名不可簡而成也、誉不可巧而立也、君子以身戴行者也。思利尋焉、忘名忽焉、可以為士於天下者、未嘗有也。
字典を使用するときに注意すべき文字
舍、息也、於殿中休息也。 やすむ、の意あり、派生してナニナニを止める。
幾、危也。 あやうい、意あり。
伐、功也。伐者爲主。 功を得る。主と為る、の意あり。
文、猶美也、善也 よし、ぜん、の意あり。
多、取數多者,仁也。 じん、の意あり。
戴、値也。 あたいする、であう、の意あり。
《修身》
君子は戦(たたかい)に陳(ちん)有りと雖(いへど)も、而(しかる)に勇を本(もと)と為すなり。喪(も)に禮(れい)有りと雖(いへど)も、而(しかる)に哀(あい)を本と為すなり。士は学有りと雖(いへど)も、而(しかる)に行(こう)を本(もと)と為すなり。是の故に本(もと)を置くこと安(やす)からざるときは、末を豊にするを務(つと)めること無し。近き者の親まざるときは、遠きを来たすを務(つと)めること無し。親戚の附(つ)かざるときは、外交を務めること無し。事の終始(しゅうし)無きときは、多業を務めること無き。物を挙げて而(すで)に闇(くら)きときは、博聞(はくぶん)を務むること無き。
是の故に先王の天下を治むるや、必ず邇(ちか)きを察して遠きを来たし、君子の邇(ちか)きを察して而して邇(ちか)くを脩(おさ)むる者なり。行を脩(おさ)めざるを見、毀(そし)るを見れば、而して之を身に反するものなり、此を以って怨(うらみ)を省(はぶ)き而して行を脩(おさ)める。譖慝(しんとく)の言、之を耳に入るること無し、批扞(ひかん)の聲、之を口に出だすこと無し、人を殺傷する孩(がい)、之を心に存すること無し、詆訐(ていけつ)の民は有りと雖(いへど)も、依る所は無し。
故に君子は力事(りきじ)の日に彊(つと)め、願欲(がんよく)の日に逾(すす)み、設壮(せつそう)の日に盛んなり。君子の道や、貧しきときは則ち廉(れん)を見、富めるときは則ち義(ぎ)を見、生けるときは則ち愛を見、死せるときは則ち哀(あい)を見る。四行(しこう)は虚假(きょか)す可からず、之は身に反するものなり。心に蔵(おさ)むる者、以って愛を竭(つく)すこと無し。身に動く者、以って恭(きょう)を竭(つく)すこと無し。口に出だす者、以って馴(じゅん)を竭(つく)すこと無し。之を四支(しし)に暢(の)べ、之を肌膚に接し、華髮(かはつ)隳顛(だてん)にて、而して猶(なお)舍(きゅうそく)せざる者は、其れ唯(ただ)聖人か。
志の彊(つよ)からざる者の智は達せず、言の信ならざる者の行は果さず。財に據(よ)りて以って人に分つこと能(あた)はざる者、與(とも)に友たるに足らず。道を守ること篤(あつ)からず、物を偏(へん)ずること博(ひろ)からず、是非を辯(べん)ずること察(あきらか)ならざる者、與(とも)に游ぶに足らず。本の固(かた)からざる者は末だ必ず幾(あやふ)し、雄にして而して脩(おさ)まらざる者は、其の後必ず惰(おこた)る、原(みなもと)の濁れるものの流(ながれ)は清からず、行の信ならざる者の名は必ず秏(やぶ)る。名は徒(いたづ)らに生ぜず而して誉(ほまれ)は自ら長せず、功は成り名は遂(と)ぐ、名誉は虚假(きょか)す可からず、之の身に反する者なり。言(ことば)を務(つと)めて而(しかる)に行を緩(ゆる)くすれば、辯(べん)ずと雖(いへど)も必ず聴かれず。多力にして而して功に伐(ほこ)れば、労すと雖(いへど)も必ず圖(はか)られず。慧者は心に辯じて而して繁く説かず、多力にして而して功に伐(ほこ)らず、此を以って名誉は天下に揚がる。言(ことば)は多(じん)を為すことを務(つと)めむも而(しかる)に智るを為すを務むこと無く、文(ぜん)を為すことを務(つと)めむも而(しかる)に察(さつ)するを為すを務むこと無し。
故に彼(か)の智を察するは無く、身に在って而して情(おこた)り、其の路に反するものなり。善、心に主(あるじ)無(な)き者は留まらず、行、身に辯(べん)莫(な)き者は立たず。名は簡(かん)にして而して成す可からず、誉(ほまれ)は巧(こう)にして而して立つ可からず、君子は身を以って行に戴(であ)ふ者なり。利を思ふこと尋焉(じんえん)とし、名を忘るること忽焉(こつえん)として、以って天下に士(し)為(た)る可き者は、未だ嘗(かつ)て有らざるなり。
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November 8, 2020, 3:10 pm
集歌一一三三
原文 皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷尓 吾反将見
訓読 皇祖神(すめろき)し神し宮人(みやひと)冬薯蕷葛(ところづら)いや常(とこ)敷(しく)に吾かへり見む
私訳 皇祖の神に仕える宮人よ。冬薯蕷の蔓、その言葉のひびきのような常敷に(=絶えることなく永遠に)私は繰り返しやって来て、この風景を眺めましょう。
集歌一一三四
原文 能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 万世左右二
訓読 吉野川石(いは)に柏(かしは)と常磐(ときは)なす吾は通はむ万代(よろづよ)さへに
私訳 吉野川よ、岩と柏とが常盤であるように、私は通って来ましょう。万代までに。
山背作
標訓 山背(やましろ)に作る
集歌一一三五
原文 氏河齒 与杼湍無之 阿自呂人 舟召音 越乞所聞
訓読 宇治川は淀(よど)瀬(せ)無からし網代人(あじろひと)舟(ふね)召(め)す声しをちこちそ聞く
私訳 宇治川には流れが緩やかな水深を持つ瀬が無いようだ。浅瀬に仕掛けをする網代人が舟を呼び寄せる声が川面のあちらこちらから聞こえる。
集歌一一三六
原文 氏河尓 生菅藻乎 河早 不取来尓家里 裹為益緒
訓読 宇治川に生ふる菅藻(すがも)を川早み取らず来にけり裹(つと)にせましを
私訳 宇治川に生える菅藻を川の流れが速いので取らずにやって来た。土産にしたかったのだが。
集歌一一三七
原文 氏人之 譬乃足白 吾在者 今齒王良増 木積不来友
訓読 宇治人し譬(たと)への網代(あじろ)吾(われ)ならば今は下(お)らまし木屑(こつみ)来(こ)ずとも
私訳 宇治人と云えば代名詞とされる網代。私ならば、今ごろはその網代木のように川の中でも入っているでしょう。たとえ、意味のない木屑さえも流れて来なくても。
注意 原文の「今齒王良増」は、標準解釈では「今齒与良増」に校訂して「今は寄らまし」と訓じます。ここでは集歌一一三七の歌は集歌一一三六の歌を受けたとすると「今齒王良増」の方が良いと考えます。
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November 9, 2020, 3:10 pm
集歌一一三八
原文 氏河乎 船令渡呼跡 雖喚 不所聞有之 楫音毛不為
訓読 宇治川を船渡せをと喚(よ)ばへども聞きそざるらし楫(かぢ)音(おと)もせず
私訳 宇治川を渡るので、対岸に泊まる船をこちらに渡せと呼ばっても、まったく聞いてはいないようだ。船を操る楫音もしない。
集歌一一三九
原文 千早人 氏川浪乎 清可毛 旅去人之 立難為
訓読 ちはや人宇治(うぢ)川浪(かはなみ)を清(きよ)みかも旅行く人し立ち難(か)てにする
私訳 武威のある人とされる物部(もものふ)の氏(うじ)、その言葉のひびきのような宇治川の川浪が清らかなので、旅行く人が立ち去り難くしている。
攝津作
標訓 攝津(つのくに)に作る
集歌一一四〇
原文 志長鳥 居名野乎来者 有間山 夕霧立 宿者無為
訓読 しなが鳥居名野(ゐなの)を来れば有間山(ありまやま)夕霧(ゆふぎり)立ちぬ宿はなしにて
私訳 しなが鳥が居る、その言葉の響きのような居名野にやって来れば有間山に夕霧が立っている。今夜に泊まる宿はないのだが。
左注 一本云 猪名乃浦廻乎 榜来者
注訓 一(ある)本(ほん)に云はく、猪名(ゐな)の浦廻(うらみ)を榜(こ)ぎ来れば
集歌一一四一
原文 武庫河 水尾急 赤駒 足何久激 沾祁流鴨
訓読 武庫川(むこかは)し水脈(みを)し急(はや)みし赤駒し足掻(あが)く激(たぎ)ちし濡れしけるかも
私訳 武庫川の川の流れが速いからと、赤駒の足掻きにほとばしるしぶきに私は濡れてしまった。
集歌一一四二
原文 命 幸久吉 石流 垂水々乎 結飲都
訓読 命(いのち)をし幸(さき)くよけむと石(いは)流(なが)る垂水(たるみ)し水(みづ)を結すびて飲みつ
私訳 命が無事で永くあるようにと、岩肌を流れる落ちる垂水(=滝)の水を、祈るが如く両手を合わせて汲んで飲みました。
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November 10, 2020, 3:10 pm
集歌一一四三
原文 作夜深而 穿江水手鳴 松浦船 梶音高之 水尾早見鴨
訓読 さ夜(よ)更(ふ)けに堀江水手(かこ)なる松浦(まつら)船(ふね)梶音(かぢおと)高し水脈(みを)早みかも
私訳 芳しい夜が更けるにつれ堀江の船乗りたちの松浦船の梶の音が高い。潮の流れが速いのだろう。
集歌一一四四
原文 悔毛 満奴流塩鹿 墨江之 岸乃浦廻従 行益物乎
訓読 悔(くや)しくも満ちぬる潮か墨江(すみのえ)し岸の浦廻(うらみ)ゆ行かましものを
私訳 残念なことに満ちてしまった潮よ。住吉の岸の入り江を行きたかったのに。
集歌一一四五
原文 為妹 貝乎拾等 陳奴乃海尓 所沾之袖者 雖涼常不干
訓読 妹しため貝を拾(ひり)ふと茅渟(ちぬ)の海(み)にそ濡れし袖は涼(ほ)せど干(かは)かず
私訳 愛しい貴女のために貝(恋忘れ貝)を拾うと、茅渟の海にやって来た。その海で濡れてしまった袖は、風にさらしても乾かない。
注意 恋忘れ貝は二枚貝の片方の貝殻を指し、古語の「忘れる(=残される)」からの言葉です。難波の海岸の恋忘れ貝は名物となっていたようで、単純に言葉表面からの「恋の辛さを忘れる」と云う意味合いだけでなく、名物のお土産と云う意味合いも万葉時代には出来上がっています。ここでは「名物のお土産」です。
集歌一一四六
原文 目頬敷 人乎吾家尓 住吉之 岸乃黄土 将見因毛欲得
訓読 めづらしき人を吾家(わぎへ)に住吉(すみのえ)し岸の黄土(はにふ)を見むよしもがも
私訳 愛すべき人を私の家に住まわせる、その言葉のひびきではないが、住吉の岸の黄土を眺める手立てはないだろうか。
集歌一一四七
原文 暇有者 拾尓将徃 住吉之 岸因云 戀忘貝
訓読 暇(いとま)あらば拾(ひり)ひに行かむ住吉(すみのえ)し岸に寄るといふ恋忘れ貝
私訳 司勤めに暇があったなら拾いに行きたい。住吉の岸に打ち寄せると云う恋忘れ貝を。
注意 この「戀忘貝」はお土産の方の意味合いが良いと思います。
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November 11, 2020, 3:10 pm
集歌一一四八
原文 馬雙而 今日吾見鶴 住吉之 岸之黄土 於万世見
訓読 馬並(な)めに今日(けふ)吾が見つる住吉(すみのえ)し岸し黄土(はにふ)し万世(よろづよ)に見む
私訳 馬を連ね立てて今日私が眺めた住吉の岸の黄土を、これからも人は万世に眺めるでしょう。
集歌一一四九
原文 住吉尓 徃云道尓 昨日見之 戀忘貝 事二四有家里
訓読 住吉(すみのえ)に往(い)くいふ道に昨日(きのふ)見し恋忘れ貝事(こと)にしありけり
私訳 住吉に繋がると云う街道で、昨日、見た恋忘れ貝。その通りに、今、手に入れました。
注意 この「戀忘貝」はお土産の方の意味合いが良いと思います。
集歌一一五〇
原文 墨吉之 岸尓家欲得 奥尓邊尓 縁白浪 見乍将思
訓読 墨吉(すみのえ)し岸に家(いへ)もが沖に辺(へ)に寄する白浪見つつ思(しの)はむ
私訳 住吉の岸に家があったなら、沖に、岸に打ち寄せる白波を眺めながら、この風景を楽しむのですが。
集歌一一五一
原文 大伴之 三津之濱邊乎 打曝 因来浪之 逝方不知毛
訓読 大伴し御津(みつ)し浜辺(はまへ)をうち曝(さら)し寄せ来る浪し逝方(ゆくへ)知らずも
私訳 大伴の御津の浜辺を引き波が底を見せるように打ち寄せる来る浪の、その浪の行き付く先は判らない。
集歌一一五二
原文 梶之音曽 髣髴為鳴 海末通女 奥藻苅尓 舟出為等思母
訓読 梶(かぢ)し音(ね)ぞ髣髴(ほのか)にすなる海(あま)未通女(をとめ)沖つ藻刈りに舟(ふね)出(で)すらしも
私訳 梶の音がかすかにするようだ。漁師の娘女が沖の藻を刈りに舟を出すらしい。
左注 一云 暮去者 梶之音為奈利
注訓 一(あるひ)は云はく、夕されば梶し音すなり
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November 13, 2020, 5:42 pm
集歌一一五三
原文 住吉之 名兒之濱邊尓 馬立而 玉拾之久 常不所忘
訓読 住吉(すみのえ)し名児(なこ)し浜辺(はまへ)に馬立てに玉(たま)拾(ひり)ひしく常忘れそす
私訳 住吉の名児の浜辺に馬を停めて玉(=恋忘れ貝)を拾ったことは、いつも忘れられない。
注意 この「戀忘貝」はお土産の方の意味合いが良いと思います。
集歌一一五四
原文 雨者零 借廬者作 何暇尓 吾兒之塩干尓 玉者将拾
訓読 雨は降る刈廬(かりほ)は作るいつの間(ま)に吾児(あご)し潮干(しほひ)に玉は拾(ひり)はむ
私訳 雨は降る。仮の苫屋は作る。その、いつの間に、私の愛しい貴女と云うような名の吾児の浜の潮が引いているときに玉(=恋忘れ貝)を拾いましょうか。
集歌一一五五
原文 奈呉乃海之 朝開之奈凝 今日毛鴨 礒之浦廻尓 乱而将有
訓読 名児(なご)の海(み)し朝明(あさけ)し波残(なごり)今日(けふ)もかも磯し浦廻(うらみ)に乱(みだ)れにあるらむ
私訳 吾児の海の夜明けの余波。今日も、いつものように磯浜の入り江に波は乱れているでしょう。
集歌一一五六
原文 住吉之 遠里小野之 真榛以 須礼流衣乃 盛過去
訓読 住吉(すみのえ)し遠里(とほさと)小野(をの)し真榛(まはり)もち摺(す)れる衣(ころも)の盛り過ぎゆく
私訳 住吉から遠い里の小さな野にある神聖な榛の葉で摺り染めた儀礼の服、その衣の色も褪せて行くように難波宮の盛りが過ぎて逝った。
集歌一一五七
原文 時風 吹麻久不知 阿胡乃海之 朝明之塩尓 玉藻苅奈
訓読 時風(ときつかぜ)吹かまく知らず阿児(あご)の海(み)し朝明(あさけ)し潮に玉藻刈りてな
私訳 潮時の風が吹いて来るのかは判らない。それでも、吾児の海の夜明けの潮時に玉藻を刈りたいな。
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November 13, 2020, 3:10 pm
万葉雑記 番外雑話 墨子を眺めて 巻十一 大取篇と小取篇を中心に
最初に、今回もまた万葉集には関係ありません。日本古代史と文化将来の状況を眺める一環での墨子を眺めての雑話です。ただし、従来の古典を眺める態度への批判的要素がありますから、そこは大きな気持ちでご容赦ください。
気を改めて、墨子と云う古典を眺めると、幣ブログの独自の眺めからすると巻十一 大取篇では、黃帝(称歸藏氏)を藏氏=藏、晋大夫楽王鮒を楽氏=楽、宋大夫尹獲を獲氏=獲、南蒯臣慮癸を慮氏=慮と称して、比喩で扱う説話に登場させます。同様に巻十一 小取篇では黃帝(称歸藏氏)を藏氏=藏、宋大夫尹獲を獲氏=獲と称して登場させます。なお、これはあくまでも弊ブログの独自解釈で、今までこのような解釈をした例は中国、台湾、日本での研究ではありません。ある種、パーフェクトな眉唾の解釈と理解してください。もし、万が一がここに存在しますと、約2000年ぶりとなる現存する墨子五十三篇に対する完全読解となります。
墨子ではその論説を行う上で自己の説を誤解なく理解して貰うために説話を多用します。当然、その説話に登場する人物の、その人物像の理解は論説をする側とその論説を受け止める相手側とに理解に異差があっては理解を深めるための説話によって反って混乱を引き起こします。つまり、巻十一 大取篇と小取篇で扱われる黃帝、晋大夫楽王鮒、宋大夫尹獲、南蒯臣慮癸は、大取篇と小取篇が説かれたときに一般的な知識階級にあっては周知の人物でなくてはいけません。それも、論説文において藏、楽、獲、慮と表記しただけで、読む人が直ちに人物が特定できる有名人なのです。その藏、楽、獲、慮は、藏=黃帝を除きますと、『春秋左伝』に載る人物です。ただし、それぞれの人物像と現在に伝わる左伝に示す人物像とが同じかと云うと弊ブログで訓じた文章からするとその理解には違いが残るようです。
現在の墨子編纂史の推定では巻十一 大取篇と小取篇は墨子五十三篇の中でも遅い時期、秦朝成立に近い時代に成ったとします。ただし、その場合、説話に登場する南蒯臣慮癸などからしますと推定する大取篇と小取篇の成立時期からすると約三百年の時代の差があります。すると、ここに問題が生じます、前秦時代の一般的な知識階級が『左伝』などの書物などの記録によらないで慮氏とその時の出来事を知っていたかです。墨学は実学の学派ですから、自説を唱えるときに相手に文章を示し、それを、じっくり、文献検索を行った上で自説を理解してもらうような態度を取るようなものではありません。墨学の文章は幼いと評論されるように単純明快でくどくどと論を述べます。すると、可能性として、大取篇と小取篇は、その比喩で扱う説話に登場させた人物たちと同時代性があったのではないでしょうか。従来の成立時代の推定では、篇自体の全体的の読解は出来ていないが、巻十の経上・下・経説上・経説下との関係性が認められるから、当然、それと同じ時期か、やや遅れて成立したと推定します。
加えて、その巻十一 大取篇と小取篇は巻十の経上・下・経説上・経説下で示す墨子の学問の概念や言葉の定義を概要解説するものと評論されます。大取篇と小取篇が説話人物と同時代性を持つなら巻十の経上・下・経説上・経説下もまたその時代に論じられたものとなります。そのような判断から渡辺卓氏の研究『古代中国思想の研究(1973年、創文社)』をそのままに現代まで引用します。なお、現代においても巻十の経上・下・経説上・経説下と巻十一 大取篇と小取篇を中国、台湾、日本において完全に読み解いた人はいませんから、読解出来ていないものをどのように成立を比定したかは判りません。ただ、幣ブログでの鑑賞からしますと、使う漢字の用法は『説文解字』を相当に眺めないと解釈が困難で、文章としては最初期に置かれる兼愛や非攻よりも古い姿があります。確かに記載する科学・施工技術の内容からしますと時代を紀元前六世紀に置くのは勇気が必要で、可能性としての最遅となる紀元前3世紀に置きたくはなると思います。
ここで話題を変えて、藏、楽、獲、慮に係わる『春秋左伝』は紀元前八世紀頃から約250年間の魯国の歴史が書かれている書物です。その『左伝」は現在の評論では前漢末に劉歆により現代に伝わる『左伝』が整備されたようです。ただ、これが戦国時代に記録された「左伝」と同じものであったかは結論を得ていないようです。なお、伝承では孔子と同時代の魯の太史であった左丘明が著した、孔子やその門人が著したとされていましたが、これについては現時点では否定的な扱いとなっています。巻十一 大取篇で扱う晋大夫楽王鮒についてみてみますと、現在の『左伝」では賄賂の授受が価値判断のような人物の扱いになっていますが、大取篇では行為と報酬との関係性を「利」とし、報酬は当然の行為のような扱いからの人物評論で説話を組み立てています。そこが、儒学的な立場の劉歆と功利主義と評される墨子の差があります。つまり、墨子の晋大夫楽王鮒の姿はオリジナルの『左伝」か、同時代性の等身大の姿です。
墨子の研究は停滞していて渡辺卓氏の研究前後からの進展はないようです。そのため、墨子の諸篇の成立時期の推定を大きく変更するものは提案されていないと思います。ただ、社会常識を持つ一般の社会人が墨子を眺めますと、その防衛戦術は戦国時代初期から中期頃のもので後期から末期のものではありません。記述する動員する兵力の規模が『史書』などに比べますと相当に少ないものです。ちなみに、備城門篇で想定する守備隊の主力は4千人規模で、内、2千人を老人と女子で編成します。他方、紀元前260年にあったとされる秦と趙との長平の野戦では秦軍60万と趙軍40万の戦いで、その前哨戦となる長平城の攻防戦では攻める秦軍20万と守る趙軍40~60万とします。まったくに規模が違うのです。そのため、大国同士の戦闘となる時代、人海戦術となる蛾傅戦法に対する防衛策は最大の重要課題となりますが、それを述べる墨子の備蛾傅は小規模で短期間の人海戦術しか想定していません。號令篇からすると蛾傅戦法での攻城戦は3か月程度しか想定していません。つまり、墨学の書に示す攻城戦術では戦国時代後期の秦、楚、魏、趙などの大国を説得することは困難です。つまり、これらの攻城戦術に係わる篇は戦国時代初期から中期頃のものと想定されます。なお、幣ブログでの鑑賞からしますと戦国時代後期に有っても有効性があるのは指揮・命令及び賞罰規定を定める號令篇だった想定します。つまり、軍法と軍政の方法論です。
加えまして、重要な問題点として近年の中国の言語研究から前秦時代と秦朝以降では漢字文字の統一性などが違うことが明らかです。中古中国語は秦始皇帝の統一漢字制定以降のことですが、一方、墨学は秦朝時代までに滅んだとします。ただし、統一漢字制定を踏まえますと実態としては前漢時代に整備されたものと推定されます。そのため、伝存する墨子のそれぞれの篇で使う文体・漢字からだけでその篇の成立時期を探ることは非常に困難です。
墨学一派が実学であり、それを実践する集団としますと、陳べる戦術的がすでに時代遅れとなった戦国時代後期に約200年から150年前の戦術を整備し公表するでしょうか。一方、秦朝成立直前にあって、墨学と儒学は二大学派を形成していると韓非子は評論しています。幣ブログの推定で、墨子の書は相当に早い時期に成り、それを精神に時代ごとに実践で応用して対応したと考えます。
おまけで、墨子の號令篇などから、古代刑法を研究する御方がいるようです。もし、そうですと、社会に生きる常識人として號令篇を読み直してください。主力守備隊の半数は老人・女子で構成し、敵が攻め寄せたときの敵の怒号にびっくりして泣き出したり、声を上げたからとして、死刑とはしません。ただし、軍規違反にとして処罰はします。漢字の「殺」には「克也、又任也。」の意味があり、これは「しょばつ、ばつをおこなわせる」の意味を取ることが可能です。同じように「射」には「法度也」の意味があり「はっと、きそく」の意味を、「誅」には「罰也、責也」の意味があり「ばつ、せめ」の意味を取ることが可能です。これは現代日本語の漢字の意味からすると大きな相違があります。
幣ブログでは万葉集は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌と主張しています。また、その漢語と漢字は隋・唐時代の解釈に従うべきとも主張します。同じように、墨子もまた秦・前漢時代に整備された書物であれば、その時代の漢字を解説する「説文解字」や「康煕字典」に従うべきと考えます。ちなみに、処罰には「射」、「断」、「殺」の区分がありますし、現代の死刑は「戮」の刑であり、その「戮」の施行では斬、斬+梟、車裂の区分を見ることができます。ちなみに「射」の処罰の一番に軽い刑は「厠掃除(便所掃除)」です。「射」や「断」などはただちに「斬罪」を意味しません。それを踏まえて、號令篇を眺めていただければ新たな古代刑法の様子が理解できると思います。
ちなみに韓非子たち法家たちは墨子の軍法は緩いとし、さらなる厳格法を秦国・秦朝で制定します。一方、漢朝の初代皇帝劉邦はその秦朝の刑法は厳し過ぎるとし墨子の軍法のレベルに戻したとします。
取り留めのない話になりました。幣ブログでは順次、墨子の訓じを週に1回、順次に載せていて、最終の「雑守篇」は来年10月を予定しています。なお、要請がありましたら、臨時に短期間に限り載せる可能性はあります。
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November 14, 2020, 3:10 pm
資料編 墨子 巻一 所染
PDFのリンク先;
https://drive.google.com/file/d/1ahrN_b6q2Mo27uiIwqsFKuenyu83ROHD/view?usp=sharing
《所染》
子墨子言、見染絲者而歎曰、染於蒼則蒼、染於黄則黄。所入者變、其色亦變。五入必而已、則為五色矣。故染不可不慎也。
非獨染絲然也、國亦有染。舜染於許由、伯陽、禹染於皋陶、伯益、湯染於伊尹、仲虺、武王染於太公、周公。此四王者所染當、故王天下、立為天子、功名蔽天地。挙天下之仁義顯人、必稱此四王者。
夏桀染於干辛、推哆、殷紂染於崇侯、悪来、厲王染於厲公長父、栄夷終、幽王染於傅公夷、蔡公穀。此四王者所染不當、故國殘身死、為天下僇。挙天下不義辱人、必稱此四王者。
齊桓染於管仲、鮑叔、晋文染於舅犯、高偃、楚莊染於孫叔、沈尹、呉闔閭染於伍員、文義、越句踐染於范蠡大夫種。此五君者所染當、故霸諸侯、功名傅於後世。范吉射染於長柳朔、王勝、中行寅染於籍秦、高彊、呉夫差染於王孫雒、太宰嚭、知伯搖染於智國、張武、中山尚染於魏義、偃長、宋康染於唐鞅、佃不禮。此六君者所染不當、故國家殘亡、身為刑戮、宗廟破滅、絕無後類、君臣離散、民人流亡。挙天下之貪暴苛擾者、必稱此六君也。
凡君之所以安者、何也。以其行理也、行理性於染當。故善為君者、労於論人、而佚於治官。不能為君者、傷形費神、愁心労意、然國逾危、身逾辱。此六君者、非不重其國、愛其身也、以不知要故也。不知要者、所染不當也。非獨國有染也、士亦有染。其友皆好仁義、淳謹畏令、則家日益、身日安、名日栄、處官得其理矣、則段干木、禽子、傅説之徒是也。其友皆好矜奮、創作比周、則家日損、身日危、名日辱、處官失其理矣、則子西、易牙、豎刀之徒是也。詩曰、必擇所堪。必謹所堪者、此之謂也。
字典を使用するときに注意すべき文字
佚、忽也、又隱遁也。 忽、忘也、又滅也。と解説します。
堪、勝也、可也 まさる、できる。時に「堪」は「湛」とし「ひたる」もあり。
《所染》
子墨子の言く、絲(いと)を染める者を見て而(しかる)に歎(たん)じて曰く、蒼(あお)に染むれば則ち蒼、黄(き)に染むれば則ち黄。入る所のものの變ずれば、其の色も亦た變(か)はる。五を入れば必ず而(しかる)に已(しかたな)く、則ち五色と為る。故に染(そ)むるは慎(つつし)まざる可からずなり。
獨り絲を染むることのみ然るに非ずなり、國も亦た染むること有り。舜は許由(きょいう)、伯陽(はくよう)に染(し)み、禹は皋陶(こうえう)、伯益(はくえき)に染(し)み、湯は伊尹(いいん)、仲虺(ちゅうき)に染(し)み、武王は太公(たいこう)、周公(しゅうこう)に染(そ)む。此の四王のものは染(そ)むる所に當(あた)り、故に天下に王となり、立ちて天子と為り、功名は天地を蔽(おお)う。天下の仁義(じんぎ)顯人(けんじん)を舉(あ)ぐるときは、必ず此の四王の者を稱(とな)ふ。
夏の桀は干辛(かんしん)、推哆(すいし)に染(し)み、殷の紂は崇侯(すうこう)、悪来(あくらい)に染(し)み、厲王は厲公(れいこう)長父(ちょうほ)、榮(えい)夷終(いしゅう)に染(し)み、幽王は傅公(ふこう)夷(い)、蔡公(さいこう)穀(こく)に染(そ)む。此の四王のものは染(そ)むる所に當(あた)らずして、故に國は殘(ざん)せられ身は死して、天下の僇(りく)と為る。天下の不義(ふぎ)辱人(じょくにん)を舉(あ)ぐるときは、必ず此の四王の者を稱(とな)ふ。齊の桓は管仲(かんちゅう)、鮑叔(ほうしゅく)に染(し)み、晋の文は舅犯(きゅうはん)、高偃(こうえん)に染(し)み、楚の莊は孫叔(そんしゅく)、沈尹(しんいん)に染(し)み、呉の闔閭(こうりょ)は伍員(ごうん)、文義(ぶんぎ)に染(し)み、越の句踐(こうせん)は范蠡(はんれい)大夫(たいふ)種(しょう)に染(そ)む。此の五君の者は染(そ)むる所に當(とう)り、故に諸侯に霸(は)となり、功名は後世に傅(つ)たはる。范(はん)吉射(きつせつ)は長柳(ちょうりゅう)朔(さく)、王胜(おうせい)に染(し)み、中行(ちゅうこう)寅(いん)は籍秦(せきしん)、高剛(こうごう)に染み、呉(ご)夫差(ふさ)は王孫雒(おうそんらく)、太宰嚭(たいさいひ)に染(し)み、知伯(ちはく)搖(よう)は智國(ちこく)、張武(ちょうぶ)に染(し)み、中山(ちゅうざん)尚(しょう)は魏義(ぎぎ)、偃長(えんちょう)に染(し)み、宋康(そうこう)は唐鞅(とうおう)、佃不禮(伝ふれい)に染(そ)む。此の六君の者は染(そ)むる所に當(あた)らずして、故に國家は殘亡し、身は刑戮(けいりく)と為し、宗廟は破滅し、絶へて後類(こうるい)無く、君臣は離散し、民人は流亡す。天下の貪暴(たんぼう)苛擾(かぜう)なる者を舉ぐるときは、必ず此の六君を稱(とな)へる。
凡そ君の安(やす)むずる所以(ゆえん)のものは、何ぞや。其の行(こう)の理(り)を以ってなし、行の理の染むるに當(あた)るは性(さが)なり。故に善く君(くん)為(た)る者は、人を論ずるを労(うれ)ひ、而(しかる)に官を治むるを佚(わす)る。君(くん)為(た)ること能はざる者は、形(ありさま)を傷(いた)み神(かみ)に費(ついや)し、心に愁(うれ)ひ意に労(ろう)す、然れども國は逾(いよいよ)危(あや)うく、身は逾(いよいよ)辱(はずかし)めらる。此の六君の者は、其の國を重んじ、其の身を愛せざるに非ずなり、要(よう)を知らざるを以っての故なり。要を知らざる者は、染むる所に當(あた)らざるなり。獨り國のみ染(そ)むるに有るに非(あら)ざるにして、士も亦た染(そ)むるは有り。其の友の皆は仁義(じんぎ)を好み、淳謹(じゅんきん)にして令を畏(おそ)れれば、則ち家は日に益し、身も日に安く、名は日に榮え、官に處(しょ)して其の理(り)を得む、則ち段干(だんかん)木(ぼく)、禽子(きんし)、傅説(ふせつ)の徒(やから)は是なり。其の友の皆は矜奮(きょうふん)を好み、創作(そうさく)比周(ひしゅう)すれば、則ち家は日に損じ、身は日に危うく、名は日に辱(はずかし)められ、官に處すれば其の理を失ふ、則ち子西(しせい)、易牙(えきが)、豎刀(じゅとう)の徒(やから)は是なり。詩に曰く、必ず堪(まさ)る所を擇(えら)ぶ。必ず堪(まさ)る所を謹(つつ)しむは、此の謂(いはれ)なり。
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November 15, 2020, 5:34 pm
集歌一一五八
原文 住吉之 奥津白浪 風吹者 来依留濱乎 見者浄霜
訓読 住吉(すみのえ)し沖つ白浪風吹けば来(き)よる浜を見れば清(きよ)しも
私訳 住吉の沖に立つ白波よ。風が吹けば、その波が打ち寄せ来る浜を眺めると清々しい。
集歌一一五九
原文 住吉之 岸之松根 打曝 縁来浪之 音之清羅
訓読 住吉(すみのえ)し岸し松し根うち曝(さら)し寄せ来る浪し音(おと)し清(さや)らし
私訳 住吉の岸の松の根を、洗い曝して打ち寄せ来る浪の音が清々しい。
集歌一一六〇
原文 難波方 塩干丹立而 見渡者 淡路嶋尓 多豆渡所見
訓読 難波(なには)潟(かた)潮干(しほひ)に立ちに見わたせば淡路し島に鶴(たづ)渡りそ見ゆ
私訳 難波の潟の潮干に立ち留まって見渡すと、淡路の島にと鶴が渡って行くのを見た。
覊旅作
標訓 覊旅(たび)に作る
集歌一一六一
原文 離家 旅西在者 秋風 寒暮丹 鴈喧渡
訓読 離(さか)る家旅にしあれば秋風し寒き夕(ゆうへ)に雁鳴き渡る
私訳 遠ざかっていく家。旅にあるからか、秋の風が寒い夕暮れに雁が鳴き渡って行く。
集歌一一六二
原文 圓方之 湊之渚鳥 浪立也 妻唱立而 邊近著毛
訓読 円方(まとかた)し湊(みなと)し渚鳥(すとり)浪立てや妻(つま)唱(よ)び立(た)てに辺(へ)に近づくも
私訳 的方の湊の洲にいる鳥よ。波が立ったからか、妻を鳴き呼び立てるために岸辺に近づいて来る。
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November 17, 2020, 2:12 pm
集歌一一六三
原文 年魚市方 塩干家良思 知多乃浦尓 朝榜舟毛 奥尓依所見
訓読 年魚市(あゆち)潟(かた)潮干(しほひ)にけらし知多(ちた)の浦に朝榜(こ)ぐ舟も沖に寄りそ見ゆ
私訳 年魚市潟よ、潮が引いたのだろう。知多の浦に朝に操っていた舟も沖の方に寄って行くのが見える。
集歌一一六四
原文 塩干者 共滷尓出 鳴鶴之 音遠放 礒廻為等霜
訓読 潮干(しほひ)ればとも潟(かた)に出で鳴く鶴(たづ)し声(こへ)遠ざかる磯廻(いそみ)すらしも
私訳 潮が引くと、共に潟に出て鳴く鶴の声が遠ざかる。磯廻りをしているのだろう。
集歌一一六五
原文 暮名寸尓 求食為鶴 塩満者 奥浪高三 己妻喚
訓読 夕凪に漁(あさり)する鶴(たづ)潮満てば沖浪高み己(おの)し妻呼ぶ
私訳 夕凪に餌を探す鶴は、潮が満ちて来ると沖波が高いので、自分の妻を呼び鳴いている。
集歌一一六六
原文 古尓 有監人之 覓乍 衣丹揩牟 真野之榛原
訓読 古(いにしへ)にありけむ人し求めつつ衣(ころも)に摺(す)りけむ真野(まの)し榛原(はりはら)
私訳 昔に生きていた人がその木を捜し求めながら衣に摺り染めたでしょう、その真野の榛原よ。
集歌一一六七
原文 朝入為等 礒尓吾見之 莫告藻乎 誰嶋之 白水郎可将苅
訓読 漁(あさり)すと礒に吾(あ)が見し名告藻(なのりそ)をいづれし島し白水郎(あま)か刈りけむ
私訳 漁をしようとして磯で私が出会った莫告藻(=名を名乗らない浜辺の乙女の比喩)を、どこの島の漁師が刈り取る(=恋人として抱くと云う比喩)のでしょうか。
注意 莫告藻の「莫告」を私に名を告げないとしますと、乙女に恋を打ち明けて振られたと解釈されます。
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